中村久子女史 その3

  • 中村久子先生と同じように、不自由な体にも関わらず自分の力で自分の生活を支えている「座古愛子先生」との出会い。座古愛子先生は、三十三年間ベッドに寝たきりである。貧乏な生活に苦しんで、今日まで生きてこられた。結婚もしないで、もちろん子供もいない。手足がなくても、私を一人前の女として二十歳まで育ててくれた親があった。私はその親を恨んでいた。座古先生は一言も親に恨みを言われなかった。
    その上、他人の私のために幸福を祈ってくださった。いままで、神、仏、親を恨んでいた私は罰当たり者ではあるまいか。過去の自分を振り返って、鳥肌が立つ思いで猛烈に反省するのです。「生まれて、生きて、生かさている」感謝の心が芽生えるのです。
  • 渡る世間の鬼の人々も、自分を鍛えてくれた尊い仏たちであったのだ。そして、自分を温かくしてくれた人々は、不幸な方々にはこういう思いやりの心で接するのですよ、と教えてくれた、これも尊い仏たちでたのだ。と言う「天の教え」に気づくのです。
    この「人間の道」を求める心が芽生えましたころ福永鵞邦(ふくなががほう)と言う方から『歎異抄』(たんにしょう)を教えられました。そして親鸞の思想に目を開き、人間の生き方のチエを完成するのです。手足のない我が身を「仏さまから、賜った体」として受け止め『不幸で不運な運命こそ、神のお恵みである』と強烈な精神で、その激しい戦いの人生を、顔をまっすぐにあげて生き抜くのです。
    そして『両手両足を切り落とされたこの体こそが、自分に人間と言うものを、人間としてどう生きるかという事を教えてくれた、最高最大の先生であった』と、めざめ『私を救ってくれたのは、訪ねて歩いて道をきいた偉いお坊さんや大学者たちではなくて、両手両足切断のこの体であったのだ』と発見する。
  • 中村先生は、身体障害者の人間の尊厳というものについて、命を張るほど勇気を持っておられた。それは、自分の身に染みた悲しい経験から考えて、同情されることは易しいけれども、それは本当の愛ではない。と悟ったからでした。先生のお母様の躾は、これが実の母親か、と思われるほど厳しかった。その涙の厳しさこそが本当の愛だ、と悟られたのです。『障害者は、人の十倍は努力せねばならぬ』と説いておられます。その努力の中でこそ『誇りが生まれてくる』と説き続けられたのでした。

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