原発問題 真弓定夫氏の論壇

およそ30年前、真弓貞夫先生の原発に対する鋭い意見を今こそ多くの人に読んで頂きたく掲載させて頂きました。

【論壇】遥かなるチェルノブイリ《昭和61年1986年8月5日》真弓 定夫

「(前略)事故以来、可能な限り数値を追っているのですが、あまりの値の高さに絶句することが度々です。すべてが汚染されてしまいました。水も土も植物も動物も、そしてもちろん人間も。

事故以来、乳製品も野菜も一切口にしていません。缶詰だの、日本食品を売っている店で買った乾燥食品だのばかり食べて生きています。空気の汚染もすさまじかったため、家の中に閉じこもっていました。雨が降ると背筋がゾッとします。
芝生にももう座れません。土壌汚染がひどく、子供たちの遊び場も閉鎖されたり、屋外スポーツ大会がとりやめになったりしました(後略)」

チェルノブイリから約2000km離れたベルリンに住んでいる知人からの手紙の一節である。今春起きた原子力事故についてソ連の報道がいかに実情を伝えていないか明白であろう。まして1957年秋~冬にかけてチェリヤビンスク地域に起き、メドページェフが詳細に報じたいわゆる“ウランの核惨事”については御存じない方が多いのではなかろうか。

この事故は軍の原子炉から排出され地下に貯蔵されていた濃縮した放射能廃棄物の爆発だったという。その際放射性核分裂物質が地上に噴出し、風にのって数千kmにわたって運ばれた。附近住民の強制退居者は数万人に及んだが、放射能障害による死者の数は解っていない。

メドページェフはウランの核惨事が平和時に起こった世界最大の核の悲劇であり、放射能被害を受けた世界最大の生態学的地帯を生み出し、今から100年たってもそれは消え去らないであろうと報じている。

原子力問題に関して語る時、ソ連のみ取り上げるのは片手落ちだろう。広瀬隆は「ジョン・ウェインはなぜ死んだのか」というユニークな好著によって、アメリカの原子核実験の恐ろしさを訴えている。“征服者”“大いなる西部”をはじめとして、1951年~58年の間に、ユタ州周辺でロケーションを行った映画関係者の中に、癌による死者が輩出しているというのである。

その中には、ジョン・ウェイン、マイケル・カーティス、ディック・パウエル、ロバート・テイラー、スーザン・ヘイワード、スティーブ・マックィーン、ヘンリー・フォンダなど私どもに馴染み深い名も多い。専門的なものではユタ大学医学部ジョセフ・ライオン教授らの“ユタ州の小児癌”に関する論文がある。

それによると、1944年~50年(A) 1951年~58年(B) 1959年~75年(C)の三つの期間について、白血病をはじめ小児癌の発生率は、1年あたりの平均値に換算して、ユタ州南西部ではAとCを100%とした場合、Bでは300%の高率に達した。B期間中に同地区で米軍による原子核実験が行われていたことは申し上げるまでもない。

ところで我が国である。「今、あなたは死の灰にとり囲まれて生活している。といわれたらどう思うだろうか。これは冗談ではない。現在の日本は徐々に放射性廃棄物によって汚染されつつあるのだ。

原子力研究所のメッカといわれる茨城県東海村の原研敷地の隅の方に“廃棄物処理場”があるが、ここをのぞいてみるといい。黄色に塗られたドラム缶が半地下式のコンクリート・プールから地上までべったり山積みにされている。
少なくとも数千本はあるだろう・・・」

これは1973年夏、佐久間稔が中央公論に書いた文章の一節である。それから13年、原発が進捗した現在ではさらに憂慮すべき状態になっているのは論をまたない。こうした原子力の被害から子供の健康を護るのは、子孫に対する私たちの責務と言えるだろう。

しかしながら、行政の子供の健康への配慮は残念ながら十分とはいい難い。その一端として、1983年1月26日、石川県羽咋郡志賀町で開かれた原発講演会での敦賀市長の演説の末尾の言葉を挙げておこう。

「その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50年後に生んだ子供が全部片輪になるやら、それは分かりません。分かりませんけど、今の段階ではおやりになった方がよいのではなかろうか・・・。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました。」

この市長の発言に対比して、冒頭の手紙の結びを紹介させていただく。

「ヨーロッパは大変なことになっているとみんなに伝えて下さい。そしてこれはヨーロッパだけではない。いつどこでも同じようなことが起きるかもしれない。そしていったん起こってしまったら取り返しのつかない、誰一人として逃れることが出来ない。だからこの時点で、ことの重大さを出来るだけ多くの人が知ることが大切だと思います」

【論壇】廃炉に向けて《昭和63年1988年1月28日》真弓 定夫

自分から書くのは面映ゆいことながら、私は周囲から静かな男と評価されており、真弓さんが怒ったのは見たことがないと言われている。その私が、怒りに身の震える思いで眠られぬ一夜を過ごした。

1月26日、伊方原発の出力調整実験反対のため、前夜から泊まり込んでいた子供の未来を憂える母親たちを、四国電力は安全性に関する何らかの説明もないまま、機動隊を導入して寒空の中に放り出したのである。血も涙もないとはまさにこのことだろう。しかも原発の出力調整のおそろしさについて、ほとんどのマスコミは報道しようとさえしない。一体、新聞記者の良心はどこへ行ったのか。科学者・教育者・医師たちは何故手を拱ねいて傍観しているのか。

原発の低出力発電の危険性については、良識ある科学者なら誰しも指摘するところである。そんな危険な実験を、我が国では、昨年10月に、敦賀原発・伊方原発で二度にわたって潜かに実験し、この2月中旬に伊方原発でその愚をくり返そうとしている。

アメリカでは、この実験は極めて危険であるとの理由で行っていないし、フランスでも一週間から、十日間の日時をかけてゆっくりと実施している。我が国では、それを無謀にも僅か一時間で行なおうとしている。

これに失敗して大惨事をひき起こしたチェルノブイルの教訓(1986年4月26日)はどこへ飛散してしまったのか。広瀬隆さんならずとも、まさに狂ったとしかいいようがない。ほぼ2年前のあの日のことは、私の脳裏に鮮烈にやきついている。

操作ミスから僅か4秒後におきた大惨事は、ヨーロッパ全土から今や地球全域を放射能汚染の渦に巻き込んでしまった。トナカイを生活の糧とするラップランドの人たちは、その生活様式の基盤を根底からくつがえされた、大人たちは汚染度の高い食品を口にし、子供たちには少しでも安全な食物を食べさせようと健気な努力をつづけているという。

そうした努力をよそに、事故後減少しつつあった食品の放射能汚染度はふたたび上昇し始め、ほとんど事故当時の値にもどりつつあるという。ここに食物連鎖の恐ろしさがある。自給自足が不可能となり、輸入食品に頼らざるをえなくなった我が国は、この食品放射能汚染をまともに受けることを余儀なくされた。

厚生省では、ヨーロッパ全域からの輸入食品中、食肉・ナチュラルチーズなど十六品目に限り、セシウム137が、食品1kg中に370ベクレル以上検出された時は輸入を禁止するという姿勢を打ち出している。

しかし、子供にとって370ベクレルという値は安全と言えるのだろうか。放射能汚染による影響は、大人より子供、子供より乳児、乳児より胎児と被害が大きくなるからである。

実際、乳幼児食品のセシウム137について言えば、日本の370ベクレルに対し、フィリピンは22ベクレル、タイは21ベクレル、シンガポールに至っては「0」と厳しく規制しているのである。ヨーロッパでも、オーストリアでは多くの食品の規制値が600ベクレルであるのに、乳幼児食品は11ベクレルとなっている。

何故、日本だけが放射能汚染食品に穏やかな姿勢をとっているのだろうか。それは、我が国がフランスとともに原発推進国の双璧であること以外に考えられない。世界中に400基ある原発のうち、こんなにも国土の狭い日本に36基もの原発が存在すること自体、異常としかいいようがない。

電力は火力・水力発電で十分まかないうるにもかかわらずである。我が国の電力使用量のピークは8月上旬の日中で1億1千万KWである。一方、火力・水力による発電力は1億2500万KWで、1500万KWもの余剰が出る。

つまり電力に関する限り、原発は無用の長物なのである。これは今回の出力調整実験計画(出力を下げる)によって語るに落ちたといえる。それならば、何故原発が存在せざるをえないのか。

まず、原発産業が国民総生産のほぼ1%を占め、全軍事費に匹敵する3兆円という巨大産業に化けてしまったからである。もうひとつおそろしいのがプルトニウムである。我が国では、1970年代から、使用済み核燃料の再処理を英・仏に依頼しているのが、再処理後に抽出されるプルトニウムを引き取るために、1990年から空輸を開始しようとしている。

プルトニウムはいまさら申し上げるまでもなく、核兵器の原料であり、アメリカでさえ、飛行機墜落時の衝撃に耐えうるプルトニウム運搬容器がないとして反対しているのである。このように、原発は決して電力供給がその主目的ではないという、その裏にある事実を冷静に凝つめ、子供や孫たちが存亡の転機に直面していることを認識して、廃炉に向けてのたえざる努力をつづけていっていただきたいものと切望するものである。

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