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生活

大貫健一郎氏の思い

話を『続 倭詩』に戻そう。宮下周平氏は、歌手の大貫妙子さんがひょんなことから農園を手伝って頂くことになったり、近くに越して来られたりと親しくなった頃、彼女のエッセイ集『私の暮らしかた』の中の、

お父様「大貫健一郎」氏が特攻隊の生き残りで、壮絶な半生を送られたことの実態を知り、宮下氏は「私の抱いていた“特攻”の美しい死生観が、粉々に砕かれた思いだった」と『続倭歌』に記している。

以下その241頁から一部を転載致します。

沖縄特攻に駆り出された大貫氏は、知覧(ちらん)から出撃し、 敵機グラマンにタンクを撃ち抜かれたが、間一髪、何故か徳之島に不時着出来た。 そして、機体からおりた刹那、爆撃で炎上。 命からがら喜界島で、救護機に仲間と乗るはずだったが くじ引きで外れ、先に行く搭乗員を夜間に見送った。 すると突然上昇した機体は、待ち構えていた敵機に空中爆破された。 二度、命拾いした。運命は定められていたのか。 その時夜空の彼方に『健一郎、どんなことがあっても死んではいけません。』と 母上の御声を聞いたと言う。

特攻を志願するも死ねない運命もある。 そんな学徒兵の中、 陸軍特攻隊では、何と1276名中 605名、約半数が帰還したと言う驚くべき事実を誰 が知ろう。 その多くが隔離所に送り込まれ、大貫少尉は福岡「振武寮」に、生きて帰って来 た。 労(ねぎらい)の一言があっても良かった。 出迎えの微笑があっても良かった。 だが、軍参謀の一声「貴様らは、命が惜しい卑怯者、帝国軍人の面汚し。」と 罵倒され、足腰の立たない程の暴力を浴びせられ、座敷牢に幽閉された。 その「許されざる帰還」特攻隊が生き残っている事は、軍部の恥、国辱だった。 死せし軍神を、国賊としてひた隠しにしたのであった。

それよりも「最後の一機で必ず、俺も突入する。」と、 隊員を鼓舞(こぶ)して死出の旅路に送り出した、 この狂気の作戦を発令した大軍司令官は、戦後復讐を恐れ警護の拳銃を身に隠しつつ自決もできず、遂に95歳まで生き延びた。 草葉の陰で、南海に散華していった若き蕾(つぼみ)は何を思うか。 犠牲と言うには、余りにも虚しく、愚かしい。  

何時の世も、何処の地も、一部上層部の判断が、国民の命運を左右する。 この沖縄決戦に陸海空四千機が出撃し、九割五分が途中、 対空砲火で撃墜され、古くお粗末な機体は目標にさえ届かず海没した。 それに比し、沈没損傷した米国の軍艦など、一割にも満たなかった。勝敗は、既に決していた。

「大貫よ、俺の無念を晴らしてくれ」とばかりに、亡き同僚・戦友の声無き声を聴きながら、氏は手向けの為に、日本行脚を、死の床に就くまで続けられた。青春に刻まれた深き傷跡は一生を支配する。それを癒すには、余りにも深過ぎた。行けども、行けども、傷口は埋まるどころか、その時に取り戻すには、一生は短く、なおも残酷すぎた。戦争はおろか、特攻をも美化してはならない。大貫氏は、歴史の裏側で逝った戦友の悲しみの代弁者として、訴え続けた。戦争の愚かさ、人が人を殺(あや)めることの哀しさ。勝つことも、負けることも。二つながら不幸であることを伝えたかった。

人類の無明が、戦後七十年を経ても、なおも止まず、世界の各地で悲惨が繰り広げられていることに、人間の業の深さを絶望する。だが、原爆を落とされてまで地に塗(まみ)れた日本が、凛として世界に、不戦を、平和を、訴えずして、誰が訴えられるのだろう。大貫健一郎氏は、歴史の生き証人として、我々にそれを伝えたかった。死してなおも、彼は生きている。

私、阿部一理は、この8月を『不戦の誓い』で過ごすための8月として、世界中が喪に服す月間として提案したい。 本当は、1944年1月3日 第一回目の試験的な焼夷空襲の対象になった名古屋から始まり、3月10日の東京大空襲へと繋がり、8月15日未明まで日本の都市が焼き尽くされることになるのである。(『日本の都市を焼き尽くす』工藤洋三著)この1月から8月までを喪に服しても良いのだが、そうすると一年の内の殆どが喪にはいってしまう。いや、毎日喪に服すべきなのだ。毎日が『不戦の誓い』でなければならないと思うのだが・・・・。

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