「エミール」その6

「エミール」フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)(岩波文庫)の上巻より、一部抜粋した言葉です。
以下は、ルソーが書き写した文章です。

『ピタゴラスはなぜ獣の肉を食うことを差し控えていたのか、と君は尋ねる。しかし、わたしは反問しよう。
殺した肉を自分の口に持っていき、息絶えた獣の骨を歯でかみくだき、死んだ肉体、死骸を自分のまえにもってこさせ、さきほどまで鳴いたり、吠えたり、歩いたり、見たりしていたものの肢体を胃袋の中にのみこむ、そういうことを最初にした人はどれほどの勇気を持っていたのか。
感覚をもつ生きものの心臓に剣を突き刺すようなことがどうしてかれの手にできたのか。
かれの目はどうして殺害に耐えられたのか。
抵抗もしないあわれな動物の血をしぼり、皮をはぎ、肢体を切るようなことをどうしてかれは見ていられたのか。
どうしてピクピク肉が動く光景に耐えられたのか。
どうしてその匂いが吐き気を催させることもなかったのか。
傷口の汚物をいじったり、そこに黒く固まった血をぬぐったりすることになったとき、
どうして嫌悪を感じることも、顔をそむけることも、恐怖にとらえられることもなかったのか。

皮を剥がれて地上にうずくまり、肉は串ざしにされて、火をあぶられてブツブツいっていた。
人は身をふるわせずにはそれを食うことが出来なかった。
そして自分の腹のなかにうめき声を聞いた。

その人が自然を克服して、はじめてそういう恐ろしい食事をした時、はじめて生きている獣に食欲を感じた時、
まだ草を食っている動物で自分の身を養おうとした時、そして、かれの手をなめている羊を殺し、切り刻み、料理するには、どうしなければならないのかと言ったとき、その人は右の様な事を想像し、感じなければならなかったのだ。
そういう恐ろしいごちそうを食べはじめた人々にたいしてこそ驚きを感じなければならないのであって、それをやめた人々にたいしてはなにも驚くことはない。
さらに、そういうことをはじめてした人々は、かれらの野蛮な行為をなんらかの理由によって弁解することが出来たのかもしれないのだが、わたしたちの野蛮な行為には弁解の余地がないのであって、こういう欠点をわたしたちをかれらより百倍も野蛮な人間にしているのだ。

(中略)

あなたがたが猛獣と呼んでいる豹(ひょう)やライオンは、やむなくかれらの本能に従って、生きるためにほかの動物を殺している。
しかし、猛獣よりも百倍も凶暴なあなたがたは、必要もないのに本能とたたかい、残忍な楽しみにふけっている。
あたながたが食っている動物は、ほかの動物を食ってはいない。
あなたがたは、あの肉食動物を食わないで、そのまねをしているのだ。
だれにも害をおよぼさないで、あなたがになつき、あなたがたの役に立っている罪のない獣たちにしかあなたがたは食欲を感じないのだ。
そして、そういう獣の奉仕に対するむくいとして、それらを食っているのだ。

おお、自然に反する殺害者よ、自然は君を、肉と骨とをもった存在、きみと同じ様に感じやすい生きている存在、きみの仲間を、食うようにつくっていると、このうえ主張しようとするなら、そういう恐ろしい食事にたいして自然がきみのうちに呼び起こす嫌悪をなくしてしまうがいい。
きみ自身で動物たちを殺すがいい。
つまり、刃やほうちょうをつかわないで、きみ自身の手で殺すがいい。
ライオンや熊がしているように、きみの爪で動物たちをひきさくがいい。
その牛に噛みついてこまぎれにしてやるがいい。
爪を皮膚に突き立てるがいい。
生きながらその小羊を食ってしまうがいい。
まだ熱いその肉をむさぼり食い。その血と一緒に魂をのんでしまうがいい。
(262頁)

===後 略===

(筆者注:ルソーは「この文章を、主題に関係のないことだとしても、これを書き写したい、という気持ちに私は逆らえなかった。と書かれている)

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