特攻は『志願』か『命令」か?

さて、特攻隊の話に戻りましょう!!
※週刊朝日2018年8月17-24日合併号より抜粋してお伝えします。

太平洋戦争末期、爆弾を抱えた飛行機で米軍の戦艦に体当たりする旧日本陸軍の自爆攻撃「特別攻撃隊」に関する書籍が相次いでベストセラーになっている。究極の犠牲精神と美化されることもあった特攻隊の「虚像」が関係者の証言などで明らかになってきた。戦後73年、いまなぜ特攻隊が注目されるのか―――

★特攻隊として出撃すること9回。その度に生還したパイロットがいた。しかも急降下爆撃で戦果をあげて。本来なら上官は称賛してしかるべきであろうに「次こそは必ず死んでこい」と激怒したという。なんとも衝撃的なエピソードが語られるのは、『不死身の特攻兵軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)。作家の鴻上尚史さんのノンフィクションで、昨年11月発行以来、増刷を重ね18万部を突破した。

同じく12月に刊行され、「体当たり戦法」も含めて戦争の実態を明らかにした吉田裕著『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)も13万部を数える。鴻上さんが読んで『不死身の特攻兵』を書くきっかけになったという、大貫健一郎・渡辺考著『特攻隊振武寮-帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫)など、特攻隊に絡む書籍の文庫化や復刊も相次いでいる。

★18万部を突破した『不死身の特攻兵』の著者で作家の鴻上尚史さんと、13万部を数える『日本軍兵士』を著した吉田裕さんが、特攻隊関連の本が読まれる理由や新たな証言が出てくる背景について語り合った。

吉田:10年ほど前から、不時着したり、わざとエンジントラブルを起こしたりして戻ってきた特攻隊の人たちの話が出てきた。特攻の多様な事実が明らかになってきた。

大岡昇平の『レイテ戦記』は立派な本ですが、体当たりに成功した人を偉大だと讃えている。それによって、生きて戻ってきた人たちに沈黙を強いる結果になった。それだけに新たな証言が出てきたことの意味は大きい。

鴻上:「志願」だったのか「命令」だったのかというのも調べてみると、たしかに志願した人もいたんです。しかし、それは予科練のように14,15歳の軍隊教育を受けた一部の人たち。陸軍の整備兵だった人たちの話では、多くの人は特攻の指名を受けた途端、顔色が本当に真っ青になったといいます。

★特攻機が不足するに及んでは、誰が見ても不向きと思われる爆撃機や練習機までも投入。整備兵をして「こんな子どもたちをこんなぼろ飛行機で」と悔しがらせたほどだった。

無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。

 その効果に関しても当時、現場のパイロットから疑問が投げかけられていた。命中しても甲板を炎上させるだけで、大破撃沈には至らない。急降下爆撃による爆弾投下が有効と意見を呈するベテランパイロットたちに対して、しかし「命が惜しいのか」と一考されることはなかった。

 栗原俊雄著『特攻―戦争と日本人』(中公新書)によると、8月15日の敗戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人(戦死者数は諸説あり)。対して、撃沈した米軍艦船は合計47隻。しかし大半が小型駆逐艦や輸送船などで、標的とした正規空母、戦艦の撃沈はゼロだ。

戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。

命じた側は共通して志願だという。しかし近年、生還した特攻兵による証言が相次ぎ出て来るようになり、断ることのできない「志願」だったことが明らかになってきた。『不死身の特攻兵』に出て来る佐々木友次さんは一例だ。

奇妙なことに命じた側の上官の多くは、出撃の際に異口同音「私もあとに続く」と演説した。けれども言行一致させたのはごくわずか。「最後の一機は、この富永が乗って体当たりする決心である」と佐々木さんらをあおって陸軍第四航空軍の富永恭次司令官は敗色濃厚と見るや、特攻機にもつけなかった護衛機に守られて前線離脱している。その行動にはあぜんとさせられる。

こうした「命じた側」の多くは悪びれもせず「特攻は志願だった」「現場で自然発生的に生まれた」と語ることで、自分の「責任回避」を図ってきた。

戦死を報告し「軍神」となったはずの操縦士たちが帰還。扱いに困った軍は、生還した特攻隊だけを集めて寮に幽閉し、「なんで貴様、帰ってきたんだ。そんなに命が惜しいのか」と追い込んでいった。戦後長く隠蔽(いんぺい)されてきた事実を追跡した『特攻隊振武寮』の解説で、取材を行ったNHKディレクターの渡辺考さんは、「命じた側」の沖縄特攻作戦の司令官で陸軍第六航空軍の菅原道大(みちおお)中将と倉澤清忠参謀の戦後の様子を紹介している。

菅原元中将もまた「最後の1機で必ず、俺も突入する」と訓示した上官のひとり

にして、戦後、特攻は命令ではなく自発的行為だったと言明し続けてきた。 その菅原元中将は90歳を過ぎ、認知症の進行した晩年、「刀を持ってこい、腹を切る」「拳銃はどこに隠した」と家人らに命令口調になることが幾度もあった。そして

83年12月、亡くなるひと月前、息子に「二十歳前後の若者がなんで喜んで死んでいくものか」とつぶやいたという。

倉澤元参謀は戦後、印刷会社を興し、菅原元中将同様、特攻隊の慰霊祭などにはこまめに出席するいっぽうで、家族には特攻の話をしなかった。そして常にピストルや軍刀を側に置いていたという。

慰霊祭に出席している倉澤元参謀を見つけた、「貴様らは人間のクズだ」「ひきょう者!!」と罵倒を浴びた「振武寮」の元特攻兵たちが「私たちを覚えていますよね」と呼び止め謝罪を求めるや、彼は慌てて首を振り、「覚えていない。どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じあげない」と顔を真っ青にして否定したという。亡くなったのは2003年である。

なお、「特攻」に関してはすでに真珠湾攻撃の際にその萌芽はあった。あまり知られてはいないが、生還の望めない2人乗りの特殊潜航艇が使われていた。 鴻上さんは著書の中で、特攻は「命令した側」と「命令を受けた側」、さらに「命令を見ていた側」の三つの立場があるとし、それを理解したうえで、命じた側の保身のために「嘘」が構築されてきことを明らかにしている。そのことの意味は大きい。(朝山実)

以上「週刊朝日」より

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