「当たり前」のことが「当たり前」でしょうか?

中日新聞に連載中の==ニュースを問う== 

「特攻」のメカニズム10。「凍土より帰還」(2023.04.09をご紹介させて頂きます。 

「戦争」の理不尽さを忘れないために・・・・ 

  

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前回まで 旧満州で特攻隊員に選ばれた関口文雄さん(旧姓桜井、1926〜2020年)は最前線の鹿児島県の知覧飛行場まで進んだが、乗っていた特攻機が整備不良で、代替機を受け取りに旧満州に戻った。再び特攻を命じられたが終戦で間一髪中止に。その後、ソ連軍捕虜になり、貨車に乗せられた。行き先が日本でなく、シベリアと知ると同調した仲間と闇夜に窓から飛び降りて脱出。顔を負傷しつつ在留邦人宅にたどり着いたが、ソ連軍に密告されて捕らえられた。 

 1945(昭和20)年暮れ、関口さんたちは四平(スーピン)の駅で再びシベリアに向かう貨車を待っていた。 

  

=====(中略)===== 

  

★貨物列車に捕虜5000人★ 

 捕虜たちが乗せられたのは、百両ほどの貨物列車。捕虜の食料として牛とか馬、豚が40~50頭ずつ載せられた。食糧用の賄車も2.3両連結して、その前後の炊事車の炊事班の係が料理をした。ソ連軍が日本の関東軍から没収した米や麦、馬鈴薯、タマネギ、コーリャー、トウモロコシを運んだ。捕虜が5000人以上いたから量も相当だった。 

  

 駅や満州、シベリアの原野でソ連兵が牛や豚を撃った後、炊事班が大きな包丁で調理する。一番いい部位はソ連兵がステーキで食べ、残りは小さく切って捕虜のスープに入れた。肉の匂いがする程度に油が浮いていた。それでも匂いをかぐだけて栄養が取れた気になった。 

 貨車に板で棚を作り、上の段、下の段に寝るのだが人が多過ぎて横に寝そべることができない。あぐらをかいたり、腰掛けながら脚を立てたりすることしかできない。歩く空間もない。腰がしびれ、1ケ月すると半病人のように青白い顔でうずくまっていた。横になれない苦痛は拷問だ。風呂に入れず、体はシラミだらけ。いくら掻いても痒くてたまらない。 

 シベリアに入ると平原や原始林が続いた。12月は冷たい風が嵐のように吹き荒れ、一日中吹雪のように。軍隊用の毛布二枚を頭からかぶっても、あまりの寒さに震えた。 

  

「あの大平原、そしてバイカル湖のそばで停車しても捕虜は脱走する気もない。 

脱走しても食べるものがないので飢えて死ぬ。 

人家もほとんない。どこへ向かって逃げるのか、完全に脱走はあきらめていた」 

  

 四平(スーピン)から35日かけて着いたのが東シベリア南部・イルクーツク。工場や市場がある大きい町だった。関口さんたちは貨車から降ろされ、ラーゲルと呼ばれた捕虜収容所に入った。 

 最初の仕事は馬の飼育。群馬県出身の関口さんは牛馬の世話に慣れていたこともあり、非常に楽だった。農家が小屋にやって来ると、いろんな荷物を引き渡した。地元の老人たちは、捕虜たちが腹をすかせていた時、ジャガイモの煮物を持ってきてくれた。彼らはソ連政府の捕虜に対する考えと違って、非常に人間的に扱ってくれた。 

  

★階級もクソもあるか★ 

 この頃、旧日本軍の階級は関係なくなったはずなのに、将校面して兵隊に「食事を持ってこい」と命令する中佐がいた。 

  

 「(中佐は)『おまえの階級は?』と聞いた。 

ふざけるな、捕虜になった以上、階級もクソもあるか!と私(関口さん)は怒鳴り返し、中佐の階級軍をすべて投げ捨ててしまった。(中佐も)大変怒ったが無視した。 

 『もうあんたは中佐ではなく、一人の捕虜として同等の人間だよ。もういいかげんにして階級意識を捨てなさい』と私(関口さん)は言った。 

 別の兵隊も中佐を批判した。相当の権威がある中佐であっても集団で孤立すると悲惨だ。以後、中佐は自分で飯ごうを手に並ぶようになった。ほかの将校も黙ってしまった。 

  

 しばらくすると、大変な重労働の石灰降ろしを任された。貨車のトン数に応じて10~15人に分かれ、山積みになった石炭をスコップで降ろして移動させ、それをトラックに積み込む。食糧は1日200gの黒パンのみ。おかずも果物も一切ない。週1回スプーン1杯の砂糖をくれるだけ。栄養失調で腹だけが異様に膨れ、胸はあばら骨が浮いてしまった。体力を消耗して倒れるとそのまま凍死してしまう肺炎とか高熱で寝込んでも仲間からは置いてきぼり。作業を終えて収容所に帰ると、病人はどこかへ連れて行かれたのか、既にいなくなっていた。 

 ソ連軍兵士は「作業を早くしろ、すぐ日本へ帰す!」としきりに言ったが、捕虜たちは皆信じなくなり、帰国の希望を失っていた。それが47年の春になると、空気が変わりだした。 

  

 「ぼつぼつ捕虜に帰国の話が出てくるようになった。目の前がぱっと明るくなって、希望が湧いてきた」 

  

 ソ連兵から何も言われずとも、二度の特攻を生き抜いた関口さんはまた運命の歯車が回り始めるのを感じ取っていた。 

  

◆関口さんを取材した林えいだいさん(1933~2017年)の遺稿「命のしずく」は途中で終わっているものの、福岡市の林えいだい記念ありらん文庫資料室には400枚近い書き起こしメモが残されている。第10部は前シリーズの続きで、メモの後半部分であるシベリア抑留から復員後までをたどる。 

  

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阿部一理 (記) 

 たかだか80年程しか経っていないのに、私たちは戦争の実態をあまりにも知りません。 

平和な時代でも「生きる」のは大変です。 

それが戦時となったら、想像を絶します。だから戦争を避けること程大切なことは、人類社会にとってありません。 

  

平和を前提に 

『飢えない、病まない、災害を小さくする世界』 

を構築するのが、地球人類全体の大目標であります。 

 80人億の地球人は『地上天国 ユートピア』と創ることに異論はないでしょう。 

 ああ それなのに人間はなんて愚かなのでしょう。 

もっと、もっと皆で声を上げて参りましょう。 

  

 そこで2つの動画を見て頂きたくご案内致します。 

1)神奈川県相模原市の「西倉勝氏(97歳)」のシベリア強制収容所での3年にわたる実体験を「語り部」として活動されている動画です (約8分) 

 

2)今日本で「緊急事態条項」が成立してしまうことの怖ろしさを動画で学んで欲しいものです。 

 札幌市の自然食品店「まほろば」のオーナー宮下周平さんがFacebookで紹介してくれた動画です。 

大至急 御覧頂きたいと思います。 (約30分)

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