歌手大貫妙子さんの、推薦の言葉『覚悟』は重い。
236頁 父君 大貫健一郎氏の『散華の海、帰郷の山』は涙無くしては読めなかった。
2011年90歳でお亡くなりになるまで、戦争の理不尽さを自身の体験を通して訴え続けていたそうです。日本中、いや世界中の人に読んで欲しい。
沖縄特攻に駆り出された大貫氏は、知覧(ちらん)から出撃し、敵機グラマンにタンクを撃ち抜かれたが、間一髪、何故か徳之島に不時着出来た。
そして、機体からおりた刹那、爆撃で炎上。
命からがら喜界島で、救護機に仲間と乗るはずだったがくじ引きで外れ、先に行く搭乗員を夜間に見送った。
すると突然上昇した機体は、待ち構えていた敵機に空中爆破された。
二度、命拾いした。運命は定められていたのか。
その時夜空の彼方に『健一郎、どんなことがあっても死んではいけません。』と母上の御声を聞いたと言う。
特攻を志願するも死ねない運命もある。
そんな学徒兵の中、陸軍特攻隊では、何と1276中 605名、約半数が帰還したと言う驚くべき事実を誰が知ろう。
その多くが隔離所に送り込まれ、大貫少尉は福岡「振武寮」に、生きて帰って来た。
労(ねぎらい)の一言があっても良かった。
出迎えの微笑があっても良かった。
だが、軍参謀の一声「貴様らは、命が惜しい卑怯者、帝国軍人の面汚し。」と
罵倒され、足腰の立たない程の暴力を浴びせられ、座敷牢に幽閉された。
その「許されざる帰還」特攻隊が生き残っている事は、軍部の恥、国辱だった。
死せし軍神を、国賊としてひた隠しにしたのであった。
それよりも「最後の一機で必ず、俺も突入する。」と、隊員を鼓舞(こぶ)して死出の旅路に送り出した、
この狂気の作戦を発令した大軍司令官は、戦後復讐を恐れ警護の拳銃を身に隠しつつ自決もできず、遂に95歳まで生き延びた。
草葉の陰で、南海に散華していった若き蕾(つぼみ)は何を思うか。
犠牲と言うには、余りにも虚しく、愚かしい。
何時の世も、何処の地も、一部上層部の判断が、国民の命運を左右する。
この沖縄決戦に陸海空四千機が出撃し、九割五分が途中、対空砲火で撃墜され、古くお粗末な機体は目標にさえ届かず海没した。
それに比し、沈没損傷した米国の軍艦など、一割にも満たなかった。
勝敗は、既に決していた。