「生きている」その2 小川茂年氏

「食養の道」1979年11月号 月刊「生きている」よりおもいきった抜粋(文責 阿部一理)

生きている(3)

健康について考えるとき

  1. 特別な養生や、ワクチンや、ビタミンや、定期の身体検査や、医者や、病院や看護婦などの保護の下に維持されねばならないのか。
  2. 健康とは自然のもので、生まれつきの人間が本来持っているものであり、その本有の性を自覚し訓練することによって、病気や疲労や恐怖を知らない自由さと、生きる喜びにみち、自然や社会や自己への発見創造の目覚めがある。

この二つの健康についての判断こそが重大な未来を占うコンパスとなる。

食物とは、何かを考えてみましょう。

東洋では昔から「食物は生命である」「食物は最良の薬である」と言われています。

第一に、食物は受動的でなく能動的・理性的に解釈することによって、自分で自分を統御する訓練を、日常生活に生かす事になるからです。

すなわち、食物なきところに生命現象はありません。

人間は食物の変化です。

食物の選択と、小腸の粘膜の性質と能力が個性をうみだすのです。

平和主義者が菜食で消化の良い食べ物を好み、英雄が酒や荒削りの穀物や肉を好むのは知られています。

第二に、食物の認識は、大地から生まれるすべての植物に親しませ、人間のふるさとの深さを示します。

大地のうみだす動物や植物との生の鼓動に我を忘れるもの、人間の素直な優しさです。

そこには、宇宙が創成されて以来の流れがあり、今の私があります。

共通し共存している意識です。

それは、「個人的生命の情愛」と「人間的生命の理智」と「宇宙的生命の意志」の三つの結びによって現存しています。

この概念化を創造的にする為には、食物を媒介として「個人」と「社会」との秩序を、生命として生きることとして学ぶのです。

自然食(3)料理の人間的意味

人間の赤ん坊は何故生まれてすぐに自由に歩けないのでしょうか?

一年間、母親に毎日世話をされながら人間としての環境と躾を受けなければ立って歩くことが出来ません。

かつて英国の博物学者G・R・ド・ビーアが

胎児の遅滞化は人間の特徴であり、人間の種の智慧なのでしょう。
これを一時的でなく習性化することで、人間は脳を成育させ発達させてきたのではないでしょうか。

赤ん坊を体外で躾けるように、料理は体外における消化で、自然の法則を人間的価値観から理解し、植物または動物から、人間への変換を安易にし、自己を創造する技術なのです。

このために、料理以前の食物の生命力が問題になります。

  1. 「米、麦、稗、粟、蕎麦」のように、種子と果肉が一体となっているもの、始めと終りを具備した全体のもの、直立した茎から上に上がったエネルギーの結合したもので、天と地を垂直に理解する人間の頭脳と対応してしている『最重要な食物』
  2. 「大豆や小豆や蚕豆」のように、種子と果肉が一体となりながらも、莢(さや)によって覆われているもの、安藤昌益は、天地の気の(退)によって生ずと言い穀類の(進)との相補を説いています。
  3. 「南瓜や西瓜や果物」のように、種子が果肉の中にあるもの、これは大地の拡散のエネルギーによって作られる為、大気の影響を受けやすい種子と分離します。これは動物食や熱と対応します。冷やす、拡がるという横ばいの姿勢です。
  4. 「大根、白菜、きゃべつ、蕪、牛蒡等」普通の野菜と呼ばれている種子の成長のある時期に蓄積されたもの、これは、1の穀類や2の豆類を補うものであり、体内の代謝機能を有効にする潤滑油の役を持っています。適切な火と塩を用いて老化を防ぎます。

★さらに最も大切なのは、料理を作り出す「心」であり「環境」です。料理は、その生成創造を自然の産みだす純粋な素材と常有不断の活動の源泉、水と火と塩と時空との秩序の相互作用を認識し、人間の創生に利用したものに外なりません。

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