黒瀬曻次郎氏が「中村久子女史」の存在を知ったのは昭和60年のNHKの「ただごとならぬ人」を拝聴して中村女史のご主人と次女の方の住んでいる高山市を訪問されました。そして4年がかりで「中村久子の生涯」を自費出版され、平成4年「知っているつもり」の放送番組で取り上げられました。
『四肢切断 中村久子先生の一生』(致知出版)は、神戸市 垂水中学校の創立二〇周年記念に講演を依頼された原本の物です。「こころの手足」と合わせてを是非手に取って読んでいただきたいと思います。そのエピローグとして「四肢切断 中村久子先生の一生」の一部をご案内したいと思います。
三歳の時に両手両足を切り落とされ72歳まで国の支援を受けないで生きられた方が中村久子さんです。
- 8歳のころから手足のない子供に着物を与えて、解いてみなさい。どうやって解くのですか?と聞くと「自分で考えておやりなさい」
鋏の使い方を考えなさい。口で針を通してごらんなさい。縫ってみなさい。と厳しく言いつける。母。言いつけたことが出来ないと。ご飯を食べさせない。「人間は働くために生まれてきたのです。出来ないとは何事ですか」恐ろしい顔で叱る。おそらく母は、心を鬼にしてこの難しい仕事をやらせたに違いありません。 - 昔は人権のない時代でしたので、貧乏な人々は自分の体を一年間でいくらと決めて、体を売り体を売った期間は奴隷のように働かされていました。中村先生は、自分の体を売ってでも「自分のパンは自分の力で稼ぎ出す」という自立心は、おそらく母親の厳しい教育から学びとった尊い宝であり、まさに艱難汝を玉にする(かんなん なんじをたまにする)の諺を地に行ったのです。※人は多くの困難を経てりっぱな人物になる。
- 名古屋の見せ物小屋にわが身を売った中村先生は『だるま娘』と名をつけ20歳から46歳までの26年間旅芸人生活を過ごしました。「与えられた運命を不平も言わないで、一所懸命に努力していこう」という強い精神力でした。たとえば、あるとき東京浅草の盛り場で、戦争で片腕を失った人が残ったほうの腕を振り回して、我が身の不幸を訴え、社会を恨んで、道行く人々にお金をねだっている姿を見たとき「そのざまは何ですか?恥を知りなさい。私はご覧のとおり、両手両足のない女ですがまだ、乞食をしたことはありませんよっ。意気地なし。男らしく、もういい加減に乞食商売なんかお止めになったらいかがですか?」激しい言葉を浴びせて、帰っております。