長崎で被爆した秋月辰一郎医師の名著『死の同心円』(講談社発行のものが、長崎新聞社から再版されています)が、福島原発事故のあと大きな話題になりました。
私阿部一理は、46年前マクロビオティックに縁しまして、創始者:桜沢如一著『心臓を入れ替える法』を手にして衝撃を受けました。この本の主人公が秋月辰一郎医師でした。生まれつき心臓の奇形(水滴のような心臓から「滴状心」と呼ばれ。20歳までは生きられないと言われた)でした。
戦前京都帝大の医学部をやっとの思いで卒業したものの、どの患者よりも弱くて医療に従事するどころではなかったのを、桜沢如一先生の講演を聴いて「ヒョットしたら治るかも?」と玄米菜食を実行した。その後たった2ケ月で普通の人の心臓になったことから、本のタイトルになったのでした。
その本の表表紙と裏表紙は、使用前、使用後のレントゲン写真の赤い本でした。秋月辰一郎医師は食生活の改善の結果を確かめたかったので心臓の形をレントゲンで確認したのです。当初は3ケ月はかかるだろうと、桜沢先生に言われたそうですが、たったの2ケ月で奇蹟が起こり、秋月先生は89歳まで生きられたのでした。
元気になった秋月医師は、現在の聖フランシスコ病院の前身、浦上第一病院に勤務していた時の原爆の体験記が前述の「死の同心円」です。
昭和20年8月9日、爆心地から1.4kmの距離での原爆は、まるで直撃弾を喰らったかのようだったと記されております。丘の上の病院から見える長崎の街は文字通り破壊された異様な光景であったと。
迫りくる『死の同心円』の輪の中に徐々に入り込む、生き延びた人も前触れもなく死にゆく群れとなるのを為す術もなく、地獄絵図さながらの中、玄米に塩をまぶして食べさせ、「砂糖は絶対にいかんぞ」と絶叫しながら警告を出し続けたそうです。その甲斐もあってか、90名の病院関係者は一人も亡くなることなく、後に被爆者の認定に差し障るほど、健康を害する者はなかったと記されております。
一般的に90%の方が死亡した至近距離であったのにも関わらず認定を受けられない程健康だったのです。玄米と塩と味噌と白砂糖無しの食生活が功を奏したのではないかとのことでした。
殊に味噌の効用が、後に広島大学の渡辺教授によって、小腸の絨毛(じゅうもう)組織が、味噌によって放射性物質から守られていることの論文が発表されたことからも裏付けされたのでした。
チェリノブイリ原発の事故の折、日本から大量の味噌が輸出されたのは、私達マクロビオティックの間のみならず、大きな話題になったことでした。
但し、原発事故と原爆は一緒に考えることは出来ません。今回の福島原発の方がハルカに放射性物質の害はひどく長期にわたっております。水や食べ物を通しての内部被曝は、体内というその距離の近さから恐るべき影響力と言わざるを得ません。