今秋、根室市を訪れる機会があり、生まれて初めて北方領土の実態にふれました。同じ北海道の道東・網走で生まれ、18歳まで育った私も、根室市とは無縁でした。
北方四島の理不尽さと悲劇にほとんど無知な自分を恥じたのでした
市内観光で見た島の近さと歴史を、入手した資料から見て行きます。
中でも読売新聞社刊『忍従の海、北方領土の28年』(昭和48年 初版)は、ショックでした。古本でしか手に入りませんが、再版を是非希望します。
抜粋して紹介致します。(長文ですが、最後までお付き合い下さい)
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その著書の挨拶文1ページでは
「忍従の海」の発刊に寄せて
前回務大臣北方対策本部長 本名武氏の挨拶文は
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北方領土、すなわち歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなりしとう)および択捉島(えとろふとう)は、歴史的にみても、国際法に照らしても明らかに我が国に帰属すべき領土であります。
これら諸島の祖国復帰は国民の悲願であり、政府もその実現のためあらゆる機会をとらえてソ連政府に呼びかけてまいっております。日ソ間の最大の懸案である北方領土問題を解決して平和条約を結び、両国の友好親善の関係をより確固たるものにしたいというのが私の信念であり、政府の一貫した方針でもあります。四島の復帰実現を平和条約交渉の眼目としているのであります。
しかし、領土問題に対するソ連側の態度はきわめて厳しいものがあります。昨年10月、16年ぶりで実現した日ソ平和条約交渉でも、ソ連の姿勢に変化はみられませんでした。平和条約交渉は、今後引き続き行われることとなっていますが、四島の復帰を実現するためには、息の長いねばり強い折衝を重ねる必要があり、さらに交渉を背後からささえる強力な国民世論の盛り上がりが肝要であると思うのであります。
わたくしは、衆議院沖縄及び北方問題特別委員会の委員として、また自民党北方領土特別委員長および総理府総務長官として長年北方領土問題にたずさわってまいりました。そして国民の関心を高めるためには、まず北方領土そのものの広報から始めるべきであると提唱してまいりました。四島が北洋のはるかかなたに浮かぶケシ粒ほどの島であり、年中雪と氷にとざされて不毛の地と誤解している国民が少なからずいると考えるからです。
このたび、読売新聞社によって元島民の証言の収録を中心とした「忍従の海」が刊行され、四島の紹介がなされることは、わたくしの年来の主張に合致するものとして、この企画に心から賛意を表するものであります。
本書が広く各界各層に利用され、北方領土問題に対する国民の理解を深めるのに役立ち、問題の解決促進に大きく寄与することを心から願うしだいであります。
◆◇◆そして 当時の堂垣内尚弘北海道知事は、3ページで◆◇◆
貴重な記録集
昨年5月には、待望の沖縄が復帰し、戦後処理で残されたのは北方領土だけとなりました。北方領土に対する国民の関心も、ますます高まってまいりましたが、このような機会に、読売新聞北海道支社が「もう一つの領土」として、北方領土問題を特集してこられましたことはまことに時宣を得たものであり、そのご努力に対し心から敬意を表すものであります。
その内容も終戦から現在までの「北方領土史」をあますところなく伝えた貴重な記録集であり、深い感銘を覚えたのでありますが、このたび、この稿が一冊にまとめられ、「忍従の海」として発刊のはこびとなりましたことは喜びにたえません。
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300ページの同著のすべてを、とても紹介しきれませんが、
一言でいえば、四島で生活していたのに、日本人の島を戦後のどさくさに紛れて島民を、おどし、けちらし、強奪したソ連の行為には開いた口が塞がりません。
序にかえて『岬のガイド嬢』13ページより、まず読んでいただきたい。
この泰(タイ)ちゃんの物語を小説に著し、アニメやテレビドラマ化出来たら、伝説の朝のNHK朝ドラ『おしん』に匹敵するような話題になることが期待できます。
そして北方領土の真実を多くの日本人が、知ることになると思うのですが・・・。
日本中の人を涙にむせばせたいと思います。
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序にかえて
岬のガイド嬢
東京は四ツ谷のあるスナック・バー。15,6人も入れば一杯になる。店のスタンドに立つ泰(たい)ちゃん。すらっとした体に、パンタロンが良く似合う。が、その顔には、都会っ娘にない素朴さの中に、どことなくカゲが宿る。
高岩泰子。昭和19年10月27日、ソ連占領下の北方四島の一つ、志発島(しほつとう)で生まれた。
46年までの青春時代、北の島々が目の前に浮かぶ根室市ノサップ岬で、市嘱詫のガイド嬢として「故郷を返して」と叫び続けてきた。
今の生活に入ってから、根室当時の話をしたことはない。だから、店の客は、だれも泰ちゃんの過去と心の痛手を知らない。根室を離れたのはある挫折感があったからだ。
泰ちゃんは正月になると母や兄が待つ根室へ帰る。半田空港から釧路まで飛行機で3時間20分。釧路から根室まで急行列車で2時間半。途中、特別天然記念物のタンチョウヅルが舞う釧根原野を左手に、シベリアからの冬の使者・オオハクチョウが羽を休める厚岸湖を右に見て、根室半島に入る。東京から約1700キロだが、羽田を昼たてば、夜には根室に着く。
懐かしい岬に立った。
泰ちゃんに吹きつける“千島おろし”は、冷たくて厳しかった。凍りついた岩ハダを荒波がかんでいた。
岬の東3.7キロには、貝殻島が浮かぶ。斜めに傾いた灯台だけが見える無人島だ。その3キロ沖合には、水晶島、秋勇留島(あきゆり)・・・。ざぶとんを敷き並べたような愛想のない島々だが、戦前はコンブで埋まった。水晶島には、ソ連側が建てた赤い監視塔があり、島の唯一のアクセントだ。泰ちゃんが生まれた志発島は、さらに18キロ沖合にある。左海上は国後島が、知床半島に重なるようにして横たわる。
貝殻島と岬との中間が、ソ連との“国境”ラインである。岬からわずか1.85キロ。国電の東京―新橋間と同じ距離。今さらながら近くて遠い島の実感がわく。泰ちゃんは、北風の中で父の死、祖母の入水自殺を思い出した。
祖父母は明治時代に島へ渡った。まだ数戸しかいない島で漁場を開拓した。サケ、カニ、コンブなど、世界三大漁場の一角で、北海の幸が、前浜にうなっていた。なに一つ不自由のない生活が続いた。幸せな日々を打ち砕いたのは、20年8月15日の終戦だった。千島列島の北端占守島(せんしゅとう)から占領を開始したソ連軍はしだいに南下した。
志発島にマンドリン銃を持った長身のソ連兵が上陸したのは、同年9月3日だった。島はソ連の支配下に置かれ、島民は一人、二人と夜なかに小舟を出して根室へ逃げた。が、高岩一家は「いつかは、ソ連軍が撤廃する」と固く信じて島にへばりついた。期待は破れ、22年秋、強制引き揚げ命令が下った。わずかばかりの荷物を持ち、引き上げ船で、サハリン州(樺太)経由で、同年10月26日函館へ上陸した。泰ちゃんが三つの誕生日を迎える前日だった。
故郷を追われた一家は、親類を頼って根室に落ち着いた。満足に住む家もなく、食糧難の時代である。一転して苦難の道が始まった。志発島、秋勇留島などの歯舞群島、それに色丹、国後、択捉三島のいわゆる北方領土から引き揚げ者16,505人(3,082世帯)にも、同じイバラの道が待っていた。受難の引き揚げ者の中でも、高岩一家は印象的といえた。
引き揚げてから約2年後の24年7月7日の七夕、父準一郎(当時36歳)が、馬車で小型漁船を町まで買いに行った帰り、馬が暴れ漁船の下敷きになり急死した。泰ちゃんが、四つの時だった。母のぼりさんには。七つの長男をかしらに。泰ちゃんら四人の子供が残された。
食いべらしのため、長男は父の実家に預けられた。のぼりさんは実父の遺産である土地、家、墓石まで売って食いつないだ。身を切る北の海に体を浸してコンブ拾いもした。過酷な労働の割には、子供を養うだけの収入にはならなかった。やむなくのぼりさんは、水産加工場で働いた。早朝から深夜まで、手を真っ赤にしての報酬は、月に12,000円たらずのものだった。なんとか食うことはできた。疲れて体は鉛のように重く、家へ帰るとグッタリ。ハキハキしていた泰ちゃんは、母がいない間の留守番部隊長であり、妹の面倒をよくみた。帰宅して、体を寄せ合うようにして寝ている子供らに、のぼりさんは安心した。
女の細腕一本でのぼりさんは、泰ちゃんらを育て上げた。地元の高校を卒業した泰ちゃんは、観光バスのガイドになった。2年ほどで辞め、家にいる時、根室市が岬のガイド嬢を募集していることを知った。
もの心がつかない前に引き揚げた泰ちゃんには島の思い出はない。しかし、祖母や母からハマナスの花が咲き乱れ、水産資源に恵まれた島の話を聴かされた。成長するにつれ、望郷の念を高めた。
『領土返還の一助になれば』
泰ちゃんは応募した。そして43年5月から、岬に立つようになった。
==中略==
返還運動へ一層かりたてたのは、祖母サダさん当時(76歳)の入水自殺だった。ガイドになって半年後、サダさんは「島へ帰りたい」と口走りながら、岬に近い小川に身を投げて死んだ。おばあちゃん子だった泰ちゃんは、冷たくなったサダさんの口元から「泰子、ガンバレ」の声援が聴こえてくるようだった。
「島が帰るまで、お嫁に行かずガイドを続けます」―――泰ちゃんは誓った。
==中略==
国内的にも問題点は多かった。毎年、岬へ視察にくる国会議員団は「北方領土は、私に任せて下さい。」と胸をたたき、威勢のいい言葉を残して帰る。だが、東京に帰ればまったく振り向いてくれない。
「各政党でバラバラな返還方法を、せめて統一して下さい」「歴代の首相や外相が岬に来たことはない。現地を見に来るよう進言して下さい」
泰ちゃんのささやかな願いすら実現しなかった。無力感は大きくなるばかりだった。また、同窓生らからは「スター気取りでいる」とカゲ口をたたかれたことも、乙女心を傷つけた。確かに。泰ちゃんは北の島々が生んだスターの一人になっていた。返還運動の推進役として、新聞やテレビをにぎわし、高岩一家の悲劇は、劇団の手でドラマ化された。
「そんな話は人づてに聴いたことがあります。しかし気にしません」
強気の泰ちゃんだったが、心の片すみにわだかまりとなって残った。やがて岬の青春には挫折感だけが残った。
「根室を離れて、生まれ故郷の北方領土を見直し、自分自身も見つめてみたい」
泰ちゃんを東京に走らせた動機だった。
泰ちゃんはいま2DKのアパート暮らし。大都会での生活も慣れた。岬を離れたとはいえ、故郷の島を忘れたことはない。部屋の本棚には手あかで汚れた北方領土のガイドブックもある。
47年5月15日、南の島・沖縄は返った。北の島で生まれ、同じような苦しみをなめてきた泰ちゃんは、わがことのようにうれしかった。
「百万の沖縄県民は歓喜にむせんでいました。私も、早くあの喜びを味わいたい。中央にいると、北方領土の話はほとんど聴きません。無風地帯なのね。沖縄に燃え上がった国民世論が、今欲しい。そのためには、東京でもっともっと、運動の輪を広げる必要があります。しかし、私自身はまだ燃え上がるものがないのです。」
岬で受けた痛手は、あまりにも大きい。
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どんな悲劇が繰り返されたのか、涙なくして読めない、多田善三郎さん一家の話を最後に、ご紹介致します。
◆◇◆***悲劇の舞台より***25ページ◆◇◆
「捕獲」にあける国境の海
悲劇の舞台
高岩泰子さんが4年間ガイドをしていた岬は、戦後の二十有余年、悲劇の舞台である。
亡くなった多田善三郎さん一家が、悲しみを象徴している。多田さん宅はノサップ灯台から西へ約300メールの海岸沿いにある。縁先から貝殻島、水晶島などが望める。戦前からの旧家で手広く漁業を営んでいた。戦後、ソ連進駐で豊かな海を失った。おまけに年ごとに強まるソ連の捕獲攻勢で、漁獲量は減るばかりである。大家族の多田家は、ソ連監視船の目をかすめて漁をする以外、生きる道はなかった。このため、出漁日は監視船の行動がゆるむシケの日になった。
春浅い31年3月7日、多田家に第一の悲劇が襲った。まだ、流水が去らない国後島沖の漁場へ船首を向けた。小さなタラバガニ漁船には、善三郎さんの長男、三男、四男、五男の息子ばかり四人が乗っていた。大漁を祈っての出漁であったが、船は帰らなかった。まもなく漂流物が発見され、沈没したことが確認された。
「船を出すんでなかった」
善三郎さんは悔やんだが、あとの祭りだった。男兄弟5人の中で遭難を免れたのは、二男の金五郎さんだけだった。
翌32年10月5日、第二の悲劇が多田家に見舞った。
同年9月末、金五郎さんの仲間の船が水晶島に座礁、乗組員は僚船に救助された。遭難船主は生活の道を奪われ、途方にくれた。遭難船が波間に見えかくれする。友だち思いの金五郎さんは仲間二人と相談し、座礁している船から部品を持ち帰ることになった。月夜で昼間のように明るい10月5日夜、船を出した。
白いノサップ灯台がくっきりと浮かんでいた。3人は“国境ライン”を突破し、なんなく遭難船に接舷した。機械類の取り外しが始まった。だが、仲間の一人が足を滑らして海中に落ちた。金五郎さんが手を差しのべて、引き上げようとしたその時だった。
ダ、ダ、ダ、ダ・・・・・・・。
あたりの静寂を破って、島からソ連兵の機関銃が見舞った。
金五郎さんは胸に弾を受け、のけぞるようにして死んだ。残る二人は、船底で死んだふりをして助かった。
二人は船もろともソ連国境警備隊の手で、収容所がある色丹島へ曵航された。
善三郎さんは頼りにしていた“たった一人の息子”を失い、悲しみのドン底に突き落とされた。すでに病床にあった善三郎さんは、ショックでその年のうちに死んだ。
金五郎さんの船に一緒に乗っていた佐藤誠さん(根室市、漁業、52歳)は戦後の北方領土史の一コマである、あの血の惨劇を思い出す。十数年たった今でも、佐藤さんの心は晴れない。
「食うために海に出ただけなのに・・・。息子が、どんな悪いことをしたというんです」――こう訴え続けていた母親のツタさん(当時71歳)も、さる39年9月に死んだ。
岬でのろわれたような一家。悲劇は、時の流れとともに秘話となりつつある。ただ言えることは、島さえ占領されていなければ多田家の悲劇はなかったということだ。
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阿部一理 記
以下年表の一部をご覧ください。
昭和20年8月8日 ソ連、対日宣戦布告
8月15日 ポツダム宣言受諾、第二次世界大戦終わる
8月18日 ソ連軍、千島列島北端の占守島に上陸開始
8月28日 ソ連軍、択捉島留別に上陸。北方領土の占領始まる
9月1日 ソ連軍、色丹島に上陸
9月3日 ソ連軍、歯舞群島に上陸。北方領土の占領終わる
ソ連の不法の実態を読売新聞北海道支社が、昭和47年5月15日の沖縄返還日から170回にわたって連載したものを、まとめたものに、さらに記者の方々の足で埋めた労作には頭が下がります。再版したいと切に願います。
終戦の僅か1週間前にソ連に宣戦布告ですよ。
そして約半月で北方四島を手中にしたのです。
こんな理不尽さがあって、良いものでしょうか!!!
ボーッと生きていて良いのでしょうか!!!