我々は日本に降伏してほしかった

 前回に続いて、鈴木冬悠人著『日本大空襲“実行犯”の告白』(新潮新書)を紹介致します。 

空軍が重要視されていなかた背景を一変させたのが、1941年12月8日の真珠湾攻撃でした。 

この稿を書いているのが奇しくも、丁度80年目の12月8日であります。 

 

戦艦5隻と400機近い航空機を破壊された大損害と言われていますが、事前に察知していた米国は大切な戦艦は予め湾外に逃し、日本が先制攻撃を仕掛け、こともあろうに大使館が届ける宣戦布告書が、タイプライターの不備で遅れたために、宣戦布告の前に真珠湾攻撃をやってしまい、世界に例のない卑怯な国 日本となってしまったことを米内光政氏の回顧録で読んだ記憶があります。 

 

 後年、実はそれも米国側の筋書き通りで、後の原爆投下の非難をアメリカは、「日本は宣戦布告をしないで戦争を仕掛けた歴史上、類のない最も卑怯な国だ」と非難をかわす口実にした、と知らされて驚いたものでした。 

 

 このあたりの話は、戦争を含め世界の大事件は計画通りに進んでいるのは、今回の『コロナ騒動』も『パンデミック』ではなく『プランデミック』だと言われている事と、合わせて考えてみて頂きたいと思います。 

 話は元に戻して『46万人が焼き殺された実態』を以下に紹介致します。 

 これからの戦争は何より『空軍』だと、主役に踊り出た飛行機による攻撃は、日本の都市を焼き尽くすことになっていたのでした。(阿部一理 記) 

 

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◆密かに準備されていた焼夷弾空爆計画(151ページ) 

 航空軍の真価が問われた日本への空爆。長年練り上げてきた精密爆撃では、思うような成果を上げることができなかった。切り札だったB-29は、エンジントラブルが相次いだ。超高高度からの爆撃は、気象条件に阻まれたことで机上の空論となり、ほとんど役に立たなくなってしまった。万策尽きたかに思えたアーノルドら航空軍。 

だが、突如、新たな秘策として「焼夷弾」が浮上した。あたり一帯を焼き尽くす焼夷弾による地域爆撃は、敵の心臓部をピンポイントで爆撃する精密爆撃とは、全く考え方が異な。揚げてきた人道主義とも矛盾する。アーノルドは、一体いつから焼夷弾を使った空爆を考え始めていたのだろうか。私たちは、改めて調べることにした。 

===中略===(154ページ の 5行目から) 

「日本焼夷弾空爆データ」INCENDIARY(焼夷弾)とハッキリ書かれていたのだ。なんと、アーノルドは精密爆撃を掲げながらも、その一方で焼夷弾による空爆作戦の準備を進めていたのだ。しかも、1943年10月に作成されていた。東京大空襲が実行される1945年3月より、1年半も前のことである。 

 レポートの中身を見てみる。まずは冒頭に、攻撃目標として20都市が列挙されている。東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、広島、呉、新潟、八幡、福岡、長崎、佐世保、小倉、大村、門司、久留米、延岡。それらの都市は表として一覧できるようになっており、各都市の人口、建物の密集度合いに応じて算出した焼き払うために必要な焼夷弾の爆弾量、それを投下した場合の被害予測が分析されている。そして、こう述べている。 

 

「20都市の人口総計の71%、 

1200万人の住宅を焼き払うことができる。 

都市としての基本的な機能を失わせて、 

あらゆる面に甚大な影響を与えることができる。」 

 

===中略===(156ページ 12行目から) 

 焼夷弾爆撃の実験場は、ユタ州ダグウェイに広がる砂漠地帯にあった。そこに、日本の下町の住宅街を建設していたのだ。 

街並みは、通りの幅、建物の距離、家の寸法、建築木材、さらには住宅の中に置かれている家具や畳に至るまで、東京と全く同じものを再現する徹底ぶりだった。 

この巨大な”東京の模型“をわざわざ実験のためだけに作り上げていたのだ 

 

 当時の実験映像が残されていた。一機の爆撃機が飛来し、無数の焼夷弾を投下する。住宅の屋根を突き破り、一階部分に着弾すると、たちまち炎が立ち上がった。 

着火したゼリー状のガソリンが、まるで生き物のようにピョンピョンと跳ね上がり、広い範囲に飛び散る。木造家屋は瞬く間に燃え上がり、隣家へ次々と延焼していく。 

ゴオゴオと炎を上げて燃える住宅街は、やがてバラバラと崩れ去った。航空軍は、こうした実験を繰り返し行った。 

 

焼夷弾は、どの程度の火災を引き起こすことができるのか。 

最適な投下場所は、どこなのか。 

消火活動を防ぐために、殺傷能力の高い爆弾と組み合わせるべきなのか。 

焼夷弾と高性能爆弾の比率は、どの程度が最適か。 

実験で得られたデータを分析し最も効果的な焼夷弾爆撃の方法を導きだそうとしていた。「日本焼夷弾空爆データ」は、その研究の成果をまとめあげたものだった。 

 

 精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルドは、1943年当時、どのような考えをもっていたのか。決して大っぴらに公言することがなかった胸の内を、部下への手紙に記している。 

 

「これは野蛮な戦争であり、敵の国民に甚大な被害と死をもたらすことで、自らの政府に戦争中止を要求させるのである。一般市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで手心を加えるわけにはいかない」 

 

 側近だったバーニー・ガイルズも、隠されていた航空軍の狙いを証言している。 

「一番の目的は、人口の中心を破壊することだった。それについては、決して公表することはなかった。しかし、それが真の目的だ。それは抵抗する者に対する爆撃だった。我々は日本に降伏してほしかったのだ。従わなければ、人口密集地が破壊されることになる」(肉声テープより) 

この稿 3回目に続く 

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阿部一理 談 

 310日東京大空襲から815日未明までの約5ケ月間、連日焼かれていったのです。 

最後に『我々は、日本に降伏して欲しかったのである』とあります。 

 改めて降伏が遅過ぎたと思えてなりません。残念です。 

日本の上層部は、この焼き殺されていった現状を知らないハズはありません。 

そして86日、9日のヒロシマ、ナガサキの原爆へと繋がるのです。 

 次回は、さらに身の毛もよだつ告白が続きます。 

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