「戦争の理不尽」の1つに「しごき」があったという。中日新聞(2020.07.31)
岐阜県土岐市 小川鉞夫(えつお)さん91歳の記事は、涙をさそう。人を狂気の精神へとかりたてる戦争の異常さは何とも悲しい。
どんな理由があっても戦争は、いけません。
ですから普段から戦争のない世界を願わなければならないと思うのです。
を合わせてお読みいただきたいです。
歌手 大貫妙子さんの父君の「特攻隊として二度の死から奇跡の生還を果たして終戦。帰国した時の、生きて帰ってた恥さらしめ!!」とののしられ、座敷ろうに幽閉された理不尽さと合わせて読んでほしいのです。
この怒りをどこへぶつけたら良いのやら。
怒るな!!などと寝ぼけたことを言う輩(やから)にモノを申したい。怒るときには、大きく怒らなければならないのだ!!!。
戦争は、人を狂気にするのだ!!と。
だから絶対ダメなのだ。平和なこと程スバラシイことはありません。
以下の記事を噛みしめて熟読して欲しいです。
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小川さんは1928年9月、名古屋市千種区で生まれた。家族は母親と三人の兄。「戦争に行きたくなかったけれど、四男だから仕方がない。どうせ、いつかは召集されると思った。」防府海運通信学校(山口県防府市)を志願して合格し、8ケ月ほど訓練を受けて卒業した。16歳の時だった。
シンガポールの航空戦隊司令部に派遣された直後、中耳炎にかかった。戦局の悪化で物資が乏しく、手術用の麻酔注射すらなかった。縫合した傷口が化膿し、痛みで身動きが出来なくなった。入院中に病棟近くが爆撃されたときは、非難する仲間の背中を見送ることしかできなかった。「死を覚悟した」という。
1ケ月ほどで退院すると、待っていたのは海軍特有のしごきだった。「貴様らは戦地の空気を知らん」。上官は夜になると、小川さんら約20人の少年電信兵を兵舎の廊下に1列に並ばせた。「電報のミスした」「敬礼しなかった」となじり、「またを開け。両手をあげよ」と命令。「海軍精神注入棒」と呼ばれたこん棒で、一人ずつ尻を殴った。しごきは毎晩続いた。
45年3月、シンガポールから南東約400キロにあり、戦闘が小康状態になっていたオランダ領(当時)のバンカ島に転戦した。そのまま終戦を迎えて英軍に抑留。45年9月からマレー半島南東部のエンダウで労役を命じられた。
労役は、ジャングルの開墾などだった。炎天下の作業に加え、食事はジャガイモの切れ端と米。茶碗1杯にも満たなかった。戦友は空腹に耐えかねて、田んぼでネズミの子どもを探し、草むらでヘビを捕まえた。小川さんは「ネズミの姿焼きは食べられなかった。ヘビも小骨が多くて、すぐに吐き出した」。
代わりにカタツムリをゆでて毎日食べたが、食あたりで10日余り苦しんだ。労役は2年ほど続き、47年10月に復員した。19歳になっていた。
小川さんによると、戦争の末期、各隊で通信兵が足りなくなった。海軍通信学校は14~16歳の少年がほとんどで、成績が優れた生徒から先に卒業し、最前線に送られた。そして多くが戦死した。
「一生懸命勉強し、優秀な若者から危険なところに出され、死んでいった。理不尽なことばかり起きるのが戦争だ」。間もなく、戦後75年の8月が来る。小川さんは今の若者たちに「幸せな時代に生きていることを大切に感じてほしい」と願っている。
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阿部一理 談
私が中学校の頃、戦争中に、こん棒で尾てい骨をおもいきりなぐられ悶絶(もんぜつ)した話をSオジさんから聞かせれて、ゾットしたことを思い出した。許される話ではありません。
口答えでもしようものなら「上官の命令は、天皇陛下の命令を思え!!!」を又殴られる。
人間は弱い者をいじめたい動物なのでしょうか?皆が皆では、ないと思いますが・・・。
私は今、地球の環境と人類の未来を案じて、農・林・水産等食糧の量と質を向上させるべく、夢のような花岡式微生物農法の普及に取り組んでおります。
それもこれも、飢餓・貧困・病・戦争を避けんがタメです。
そして災害の被害を限りなく小さくする治水政策が急がれる昨今です。
今年の梅雨の水害は、本当に酷かった。秋雨前線も酷い、という予測をある先生の講演で耳にしました。
大量の雨に負け続ける川の整備とともに、やらなければならない事が山積しております。
そして、健康面では、飲み食いするものを、40℃温かさのにして免疫力をアップを。
コロナを乗り切る知恵を、声高らかに叫びつつ、
やるぞ!!!
地球の楽園作りを!!!!