人生では衝撃を受ける書物との出会いが度々あります。
原田伊織氏の『明治維新という過ち(日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト)』(毎日ワンズ出版)も正にそうでした。
2015年1月1日初版で、わずか7ケ月で12刷りですから、今ではどのくらい出版されているのでしょうか?
タイトルからおよそ内容はうかがい知れますが、たかだか170年ほど昔のことが、こんなに分からなくなって、まるで正反対の評価をされている事に驚きます。
この本を読みながら何度涙したことでしょう。会津藩の『白虎隊』が若い青少年の部隊として悲惨な死を遂げたことは有名ですが、福島二本松の少年隊は更に若く、最年少は数え年12歳の久保豊三郎(最終的には62名が確認された)たちが死を遂げたのです。今でいうと小学5年生です。
私は5年ほど前に二本松市に出向く機会があり、二本松少年隊が眠る霞ケ城で手を合わさせて頂きました。
とても女性の方には読ませられない描写もあり、維新の志士たちの暴挙は狂気の沙汰であります。明治の元勲たちは、文明開化の英雄たちと思い込まされていたのが、史上まれにみる大悪党だったとは、空いた口が塞がらないとは正にこのことであります。
歴史感がひっくり返って、俄かに信じられなく、どうして良いか分からず途方にくれた記憶があります。明治維新の顛末は、一部は知っていたつもりでしたが、こうもあからさまに知らされるとは・・・。
そしてまたまた、それを裏付ける超々凄い本に出会いました。
『新・日本列島から日本人が消える日(あなたが幸せを手入れる為の破・常識な歴史が今解き明かされる)』(ミナミAアシュタール著、上巻・下巻・最終巻の三部作。破・常識屋出版)
令和4年5月3日読破。何とも凄い!!!
縄文時代から今日までの日本の歴史の真実が明かされ、対策も示されています。
明治維新がとんでもない最悪の事件であったことを隠すために、江戸時代を暗い不幸な時代として描き、明治の元勲たちを英雄に仕立てた背景が実に良く分かります。
えっ、ホンマかいなと疑問を呈しながら読み進めました。江戸時代(100人万都市の江戸の都)は、ある意味理想的な循環型社会として完成し、今はやりの『SDGs』を見事に実践し、文化も教育水準も類をみない程高く、人々は幸せな260年の江戸時代は戦争のない平和そのもので、鎖国が出来たということは、どのくらい『国力』があったかの証でもあったのです。
一例をあげると、
日本語の難解さを思えば文字が読める識字率の高さは、
世界に類を見ない高い水準で、
関孝和の和算のレベル、
浮世絵のスバラシサ等々、
高い評価の江戸の文化が世界で見直されているのは皆様よーくご存知の通りであります。
この本では、信長の描いた平和な争いのない時代作りを、秀吉・家康・濃姫・光秀らが一致団結して実現させたことを知り、ナント違って思い込まされていたものかと愕然とさせられました。
私の乏しい知識からも妙に納得が行ったのであります。
『本能寺の変』は信長の仕組んだ大芝居で、本能寺で死んだように見せかけ、長野県の山中で隠遁生活をし、秀吉に後を託し、光秀は天海和尚として家康を助け、江戸時代の基礎を作った、というのです。
信長が「サンカ 山窩」だと言う下りは特に得心でした。
「サンカ」については、その昔マクロビオティックの大森英櫻先生の講義で三角寛著『山窩は生きている』(河出文庫)話を聴いた折、古代の日本人の逞しさを知らされました。山の中で自然な生活をしていた「サンカの人々」の凄さは、お産をした女性が翌日、数十キロも山の中を歩いて移動している下りがあり、まさかと思っていたところ、『真面目に玄米菜食』をしている仲間からそんな話を聞いて、本当なんだと思わされたことがありました。
余談ですが、それは群馬県桐生市の坂口和穂ちゃんの出産のモノガタリです。(1979年11月号の雑誌『食養の道』第7号に記事があります)
少し長いですが、最後までお付き合い下さい。お母さんセツ子さんの手記です。
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==ああ!怖いものは何もない」と思った日==
それは、私がひとつの命を生んだ昭和54年5月25日のことでした。出産予定日が2日過ぎていましたけれど、全然不安がなかったのです。というのも、桜沢如一先生の『食養人生読本』にめぐりあえたお陰で『お産は病気ではない。自然なんだ。普段から、あまり自然に逆らった生活をしていなければ、神様が無事に生ましてくださる。いちばん自然なお産というのは、その文字“産”の示す通り、立って帳(とばり)をしめて生む、というような楽な、自然な、まるでウンコをするようなもの』と信じていたからなのでした。
夕方6時ころ、上の子どもを水泳教室に送って行き、食養の仲間の青木さんが、車のカギを落としたというので、あっちこっち探していた時、下腹が、何というか「メリッ」そのとき直感で「ああ、今夜生まれるのかな?」と思いました。でも、痛いという感じではありませんでした。
それから陣痛らしきものを感じはじめたのが、午後の9時30分ころで、それも全然痛くなくて、片づけものをしたりしていました。
そのうちに、おなかの恰好が下を向いてきて、そろそろお風呂に入っておこうと思い、体を洗っていると、また「むかっ、メリッ」という感じがして、ここで、今生まれてくれば世話なくていいな、なんて一人で思いながら、家族の人たちには、まだ誰にも言いませんでした。
お風呂から上がってから、完全に赤ちゃんが生まれるというのを感じましたので、家の人たちに「もう生まれそうです」とはじめて言ったのでした。
自分で支度をして、少々お酒を飲んでいた主人を隣に乗せて、自分で車を運転して助産院へ行きました。助産院は真っ暗で誰もいない様子ですので、近くの電話ボックスから助産婦さんの自宅に電話をして、玄関先で待っていたのです。15分くらいの間に、2回ほど、例のチットも痛くない陣痛らしいものを10秒ほど2回感じただけで、あとはケロッと普段と全く変わりなく「先生、遅いわね。まだ来ないわ」なんて主人と話をしていたのです。
==ウンコのように楽に生まれて==
下腹が「むかっ」と来たので、主人の肩に手をかけると、もう頭が出てきてしまったので、あわてて主人に「赤ちゃんがつかえちゃう、早く下着を脱がして」なんて言っているうちに、「パカッ」というか、「スゥーッ」というか、アッという間に生まれちゃったのです。
主人に手伝って貰いながら、自分でとり上げた訳です。ちょうど、足を広げて立ちながら、赤ちゃんと対面するように、両手で抱くようにとり上げたのです。本当に立ったまま、とばりこそしめませんでしたが、時は、あと10分で午前0時、神様が夜のとばりをしめてくださっておりました。最高のお産です。最高の気分です。これ以上楽なお産があるとしたら・・・・・。
私は満天の星空の下で、自然な恰好で、この大宇宙のすべての力によって、楽に生ませていただいたのを感じ、感激的な大仕事をしたという満足感で一杯でした。
そして、生まれた赤ちゃんは、大きな声で「オギャオギャ―」と2声出して、スヤスヤ、スヤスヤ。頭から出てきて、大きな声で一声泣けば、赤ちゃんは無事である、というのをいつの間にか、常識として知っていたのです。一瞬一瞬が本当に感激的でした。
そのまま15分、私は立ったまま、赤ちゃんはへその緒のつながったままタオルにつつまれて、主人に抱かれていました。
その間「生まれちゃったから、このまま帰っちゃおうか」とか、
「ねェ、男の子かしら、女の子かしら?」
「暗くて分からないよ」
「さわってみれば分かるでしょ」
「あれ、ついてないみたい」
「それじゃメスだ」なんて・・・・。主人と二人で笑いこけながらいると、そのうち暗闇の中を、元気のいい80才の岡部先生が、肩で風を切るように、ゆうゆうと歩きながら声をかけて来たのです。
「どうしたい、大丈夫かい」と、約20メートルは離れている。
私は思わず大きな声で「先生、もう生まれちゃたです」
「そんな大きな声が出るんじゃ、まだだ、まだだ」と10メートルぐらいのところまで近づく。
「ほんとにできちゃったんですよ。先生。パカッ!と生まれちゃったんです!」
やっとそばまで来た先生が、主人の抱いている赤ちゃんをみて
「あれま、ほんとに生まれてしまったんかい。じゃ、さけちゃったね、痛いだろう?」と訊くのですが、それが、生んだ後も全然痛くないのです。それより、たまっていたウンコが出たみたいで、なんか、せいせいした感じなんです。こんな考えは不謹慎かしら。
「じゃ、出血は大丈夫だ、ずい分伸び縮みがいいねェ・・・・・」そして、先生は裏からまわって玄関を開けて下さり、はじめて分娩室へ。こんな格好で分娩室へ行く人は滅多にいないでしょうね。主人の抱いている赤ちゃんと、へその緒でつながっている私が、エッチラ、オッチラ、ぎこちない小学生の運動会の二人三脚みたいに歩いていきました。
==“まっかっかの赤ちゃん”は珍しい==
産後も、先生に「いきばってごらん」なんて言われて、私がちょっといきばって、先生が下腹をギュッと押したらいっぺんで出てしまいました。
赤ちゃんは、初湯のあと計ってみると3.2Kgとのこと。若い時から永年助産婦をしていて、今までにとり上げた赤ちゃんは、一万人を超えているという。とても経験の豊かな岡部先生が、
「この子は、最近珍しいくらい。まっかっかの赤黒い、元気な赤ちゃんだね」と言われ、赤ちゃんというのは、なるほど赤いから赤ちゃんというのか、とヘンな感心をしたりして、初湯で、すっかりきれいに洗われて、先生に抱かれた赤ちゃんをみたときは、「これから一生よろしくね、おやすみなさい」と自分の子どもながら、自然に合掌したのでした。
助産院へ来てから約一時間、もうすっかり、親子共々きれいにしていただいて、あとは寝るばかり。大活躍の主人は、私と赤ちゃんにさよならを告げ家に帰りました。
岡部先生は、私の汚れものを、一時過ぎだというのに一生懸命洗ってくれるのです。お母様のお母様のような岡部先生が、一区切りついて私のところに来てくれて、
「セッちゃんは、生ませるのにチットも手が掛からなかったから、せめてこれくらいはさせて貰わなくちゃね。赤ちゃんは隣の部屋でスヤスヤ寝ているから、心配しないでゆっくりおやすみ」と優しく言ってくれるものですから、私は、何とも言えぬ安堵感の中で目をつむりました。
「お産の苦しみは女の宿命だ」なんて、お釈迦様もおかしなことを言ったものだわ。野生の動物は、みんな楽々お産しているですもの、人間だって当たり前なんですね、この当たり前のことを“自然”というのでしょうね、なんて考えているうちに、いつの間にやら眠っていたようでした。
午前四時、トイレに行きたくて目が覚めて、用を足してから、アレッ、ハテナ?一番上の子どものときなんか、産後トレイに行くのにやっとの思いで行ったのを思い出し、生んだあとも何ともないのです。またまた感激。なんと健康と言うのはアリガタイものでしょう。
次の日、食養の友達や姉たちが玄米やキンピラなど、ほんとうにアリガタイものを持って来てくださり、何と私は果報者なのだろうと幸せいっぱいでした。
「正しい食生活をしていると、必ず神様から、健康というご褒美がいただけるんだよ」という阿部一理先生のお話を思い出しながら、こんな幸せを私一人のものにしてはモッタイないと思い、どうやって世界中の若いお母さんたちに知らせようか、と大声で叫びたいような気持ちになりました。
==すべてものに感謝の気持ち==
約一週間後の6月1日からは普段の生活に戻りました。岡部先生に、砂糖湯はあげないようにお願いしてありましたので、カニババ(胎便)も簡単に出てくれました。退院は2日間という超短期間で、へその緒は5日目にとれました。
阿部先生から、『和穂』という名前を付けて頂きました。文字通り、コメの子、穀物の子という名前です。
その後、和穂はまったく手が掛からず、ほんとうにありあまるほどのお乳を飲ませるときと、御尻をキレイにしてあげるだけで充分なのです。あとは良く寝てくれます。特に夜中は必ず寝てくれるのです。昼間は、目が覚めていても、一人で声を出して遊んでいたり、目が見えるようになってからは、誰がのぞいても笑うんです。眠くなればそのまま寝てしまう。みんなに、この子の泣いたところ見たことない、なんて言われます。
ほんとうに玄米にめぐりあえて幸せです。子供を産んだ瞬間、世界中のすべての物や、人や、虫けらや、大地に感謝の気持ちでいっぱいになりました。健康な人たちが、幸せいっぱいで、自由な平和な社会がいつまでも、いつまでも続きますように、と祈りたい気持ちでいっぱいでした。
正直言って私は、玄米の噛み方が足りませんでした。不自然なものも、ほんのたまにですがつまんだりしました。それでも、基本的に玄米をしっかり食べていたということ、自分に縁のある、沢山の人の為に出来るだけお役に立とうと、身も心も一生懸命使わせていただいた妊娠中の生活のお陰で、大自然(神様)は、安産と丈夫な子という最高のプレゼントをくださったのでしょう。
これからの人生、この宇宙全体の見えない諸々の空なるものへの感謝の気持ちを、愛する夫と、子供たちと共に片ときも忘れることなく、しっかりと生きたいと思います。
私の未熟な体験が、ほんの少しでもお役に立てるなら、こんな喜びはありません。若いお母様、これから結婚しようというお嬢さんたち、不安なことがありましたら、いつでも御連絡下さい。
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阿部一理 記
お産は、全く痛くないまるでウンコをしたみたいに
特に『初産は、最高のエクスタシー』とは、何ともスゴイ話です。
自然の生活の凄さを沢山教えてもらっていたものですから、サンカの人たちのお産の翌日の移動も理解できたのでした。
信長はサンカの一族とあって妙に納得したのです。
坂口セツ子さんの43年前の手記を久々に読み返させて貰い、これは世界中の母になる人たちに是非知って頂きたいと思った次第です。
『江戸時代のスバラシサ』の背景の一部は
『信長はサンカ族』にあったのです。
==次回に つづく==