放射能の被爆をしたにも関わらず、放射能の大きな被害に遭うことなく生き延びたのは「秋月医師が推奨した玄米・味噌・そして塩をしっかり摂り、白砂糖をやめる」という事であった。
ご存じ「死の同心円」に詳細に書かれています。医師の記録として残されている貴重な書物であります。原爆の悲惨さで胸が痛くなります。
秋月辰一郎氏は原爆の悲惨さを伝えるためだけに出版されたのではないと思います。それは「第七章 長い歳月が流れても」を読むと判るかと思います。
第七章の一文をご紹介致します。
昭和二十四年(1949)五月、天皇が長崎に行幸(ぎょうこう)されるというニュースを、私は多良岳の家で聞いた。天皇は焼けて黒ずんだ医大の三階屋上から被災地を視察され、一キロ離れた自宅から運ばれる重症の永井先生の拝謁を仰せつけられるという。
その五月二十七日、長崎全市は興奮にわきたった。医大の学長も、稲佐小学校につくられた教護所で被爆者を一手に引き受けた有富先生も感激に涙しているという。
私はそれを聞いて悲しかった。釈然をしなかった。なにをいまさらというのが、いつわりのない自分の気持ちであった。
私はけっして、天皇陛下を戦犯第一号などと思ったことはない。その点では、しごく平凡で、穏健な日本国民のひとりである。しかし、遅すぎた平和を思い、開戦の日の勅語を思い、どうしても素直に熱狂の渦の中にはいっていけなかった。(中略)
ヒロシマとナガサキの事実が、忘れられていくのを悲しみ、憤って、私はふるえる。それだけではない。長崎原爆の実態が、はじめから知られていない、正確に調査され、記録されていない、という不満が私をいらだたせるのである。被爆の直後から、これを知らせまいとする、またくわしく調べせまいとする何かがあったのではないだろうか。
(中略)
長崎では、夏になると「原爆、原爆」やかましくなり、八月九日が終わると潮引くように静かになる。ある被爆者は「原水爆禁止というが、あれは金魚売りとおなじだ」と自嘲している。原爆は、長崎に人々にとっても、今や夏の風物詩のひとつになってしまったのである。
(中略)
賢くて愚かな人間は、あの八月九日からぜんぜんかわっていない。悲しいことに、おなじあやまちをくりえそうとしているのである。あれから、とうに四半世紀がすぎたというのに・・・・。
この書籍は、昭和47年7月に出版。いまから40年以上も経た現在。終戦70年目の今年。いろいろ国際関係も変化しています。是非この機会に「死の同心円」を手に取りご感想等お聞かせください。
長崎文献社から再版されています。