YouTubeで凄い映像『中央軍事情報局・スーパーミリタリー』の##人命を喰らう国家(衝撃映像)カメラが捉えた決定的瞬間##を観ました。
第二次世界大戦では世界中で6500万人が死亡し、うち4000万人が一般市民と推測されるとありました。
アウシュビッツをはじめ、収容所だけで1000万人が虐殺され、独ソ戦という絶滅を目指した戦争で2000万人が死亡し、昭和20年3月10日の東京大空襲で10万人が焼き殺され、同年4月からの沖縄戦は県民の4人に1人が死亡。そして「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆へと本当にむごい戦争のサマが約1時間続く映像でした。
精神的な強さがないと堪えれないと思いますが、私たちの現実社会の実態だから目をそむけないで観て欲しいと思います。
同じ『中央軍事情報局・スーパーミリタリー』の##戦争ビジネスの構図(記録映像)国際社会の癌細胞##(7分間)の中に、アメリカは245年の歴史の中で戦争をしなかったのは、僅か17年しかないともありました。
アメリカは戦争をしないとやっていけない国だというのです。兵器商人である軍産複合体は、戦争を最高のビジネスとして実戦しているというのです。とても分かりやすい解説だと思いました。ゼヒこちらもご覧ください。
さて、今回は『沖縄返還50年』を記念に『沖縄戦』を取り上げようと資料に目を通していて、気持ちが変わりました。
歴史に『IF』はありせんが、敢えて『もし』と言わせてもらえたら、太平洋戦争をいつの段階で終戦していたらと考えてみたいと思ったのです。
2022年6月号の雑誌『歴史人』保存版特集『沖縄戦とソ連侵攻の真実(昭和20年の)』を参考にさせて頂きました。
私阿部は、40数年前マクロビオティック総本山の日本CI協会から独立して、ヤマト食養友の会を設立し月刊誌『食養の道』の誌友会員の募集で沖縄県の方々に、一番お世話になった経緯がありました。ですから是非とり上げさせて頂きたいと思った次第です。
県別の会員数は東京と熊本と並んで沖縄がトップ争いをしていたのには、本当に感謝で一杯であります。
さて以下は、沖縄戦の真実『歴史人』6月号12ページより。歴史家河合敦さんの解説からの抜粋です。
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レイテ沖海戦の敗北、硫黄島の玉砕により、日本本土を防衛する
最後の拠点となった沖縄。昭和20年3月末からはじまった戦いは、上陸戦、市街戦、陣地戦、掃討戦などありとあらゆる死闘が2ケ月間あまり続き、両軍の兵士だけでなく多くの民間人が巻き込まれた悲惨な戦いとなった。
ここでは沖縄戦勃発の要因、戦いの経過、悲劇の実態をわかりやく解明する。
==日本本土の攻撃拠点として米軍に狙われた沖縄==
緒戦、太平洋戦争は日本軍の連戦連勝だったが、昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦で日本海軍の機動部隊は航空母艦4隻を失う大敗北をきっし、以後、次第に劣勢になり、翌年、占領したガダルカナル島から撤退し、アッツ島も落とされた。さらに翌昭和19年6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は壊滅的打撃を受け、7月、絶対国防圏の要であったマリアナ諸島のサイパン島が陥落する。これによりアメリカ軍は、同島を基地として直接日本本土を爆撃できるようになった。東条英機内閣はその責任をとって総辞職した。
代わって組閣した小磯国昭内閣になっても戦況は悪化の一途をたどり、10月のレイテ島沖海戦でも大敗し、その後も敗北を重ね連合艦隊は壊減状態になった。このため南方資源地帯から日本本土への海上輸送路は、アメリカの空母機動部隊や潜水艦の攻撃で寸断され、戦争の継続は極めて厳しくなった。
しかし小磯内閣は、「一億総玉砕・本土決戦」をとなえて国民の戦意を高揚させた。だが11月になると、マリアナ諸島から飛来する膨大なアメリカ軍機が無差別に爆撃をおこない、中小都市までが甚大な被害を受け、膨大な民間人が犠牲になった。こうして昭和20年(1945)には日本の敗北は決定的となった。しかし、大本営はそれを認識しながら、どうにかもう一度アメリカに痛撃を与えて有利な条件で終戦に持ち込みたいと考えた。しかし3月には東京大空襲で首都が甚大な被害を受け、さらに激戦のすえ、同年、硫黄島も陥落してしまった。
一方、アメリカ軍は、最終的に日本本土を攻略して戦争を終結させようと考えており、そのために沖縄本島を本土上陸作戦の補給基地や本土爆撃のための航空基地にしようと占領計画を立てた。
==不足する兵員を県民から補充した日本軍==
大本営は当初、沖縄を本土防衛の前線として死守する計画であったが、これを改め、敵が上陸してきた場合、極力敵の消耗をはかって航空基地の造成を妨害することにした。沖縄戦を本土決戦に備えるための時間稼ぎ、すなわち捨て石にすることにしたのだ。
(中略)
==日米両軍が犯した住民殺害の愚行==
さて、沖縄上陸戦である。アメリカ軍は、ようやく5月下旬、首里城の旧司令部壕を抜くことができた。この戦いで日本軍7割の将兵が戦死したが、沖縄戦は本土決戦のための時間稼ぎであったため、牛島中将はさらに南部へ転進しながら散在する自然洞穴(ガマ)を利用しつつ、組織的抗戦を続けていった。
南部には、戦いをさけて非難していた民間人が10数万人いたといい、彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていった。というのは、アメリカ人は鬼畜だいう教育をうけ、捕まれば拷問されたり陵辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。なおかつ、捕虜になることは、死ぬより恥ずかしいという考え方も浸透していた。そのため、民間人は常に砲弾にさらされることになり、多数の死傷者を出した。また、アメリカ軍に包囲されたさいには、手榴弾などでの集団自決も後を絶たなかった。
はじめアメリカ軍は、民間人が抵抗しなければ捕虜として丁重に対応したが、司令官バックナー中将が日本兵に暗殺されたことに激怒し、民間人を虐殺するようになっていった。防空壕やガマにガソリンを流し込んで火をつけたり、手榴弾を投げ込んだり、毒ガス兵器を使用するなどして、多数の命を抹消していった。そんななかでも、ひめゆり部隊の悲劇は有名であろう。沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護師として従軍させられていた。ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
(中略)
この戦いで沖縄本島に降り注いだ砲弾は、1平方メートルに一発といわれ、軍人・民間人を含めておよそ20万人が犠牲となった。とくに沖縄県人だけでみると、なんと4人に1人が死んでいるのである。一家全滅も珍しくなかった。
アメリカ軍は、本土決戦の縮小版がこうした結果に終わった事を重く考慮し、日本列島の上陸作戦を大幅に変更したと伝えられる。それにしてもあまりに悲惨な戦いであった。
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阿部一理 記
昭和19年6月には、マリアナ沖海戦で日本海軍は、壊滅的打撃を受け、7月9日絶対国防圏の要であったサイパン島(東京から2600キロ)が陥落する。
これによりアメリカ軍は、同島を基地として直接日本本土を爆撃できるようになった。 繰り返しになりますが、東条英機内閣は、その責任をとって7月18日総辞職した。そこで終戦もあり得たでしょう。代わって組閣した小磯国昭内閣は「一億総玉砕・本土決戦」をとなえて国民の戦意を高揚させた。
良く知られているように、大本営発表は、ウソの発表をし、新聞各紙も大いに煽ったのでありました。「一億総玉砕」なんて一体誰が望んでいたでしょう。ゾットします。 昭和20年7月26日の日本に向けられた「ポツダム宣言」に対して、毎日新聞は「笑止」「自惚れを撃砕せん」といった言葉で戦争の継続を煽ったことからも分かろうというものです。終戦の僅か20日前の新聞各紙は似たり寄ったりの煽りでありました。
もし、正しい情報が伝わっていたら、そして声をあげられる環境があったとしたら遅くとも昭和19年7月には、日本人の多くは終戦希望の声をあげていたであろうと思われるのです。
昭和19年11月には、マリアナ諸島から飛来する膨大なアメリカ軍機が無差別に爆撃を行い、中小都市までが甚大な被害を受け、膨大な民間人が犠牲になったのでした。
東京から1200キロの硫黄島にアメリカ軍上陸4日目、摺鉢山の頂上に星条旗が翻ったあの有名な写真は、昭和20年2月23日のことでした。日米の歴史的な激戦は、重たい焼夷弾を積んで、本土を往復できる飛行場を手に入れたいアメリカの絶対条件だったのです。栗林忠道中将の思いもよらぬ抵抗でアメリカ軍の苦戦は、次の数字で良く分かります。
結局日本軍の戦死者は、
防衛省防衛研究所によれば約1万9900人(厚生労働省は約2万1900人)。
捕虜は1033人。
アメリカ軍は戦死6821人。
戦傷者2万1865人。
死傷者数2万8686人は日本守備隊を上回り
屈指の激戦といわれたのも肯けるところであります。
東京大空襲で10万人が焼き殺されたのが、昭和20年3月10日。
そして沖縄戦は3月末から。
あの無謀な策の特攻作戦も零戦で編成した神風(しんぷう)特別攻撃隊を出撃させたのが、(大西瀧次郎中将)昭和19年10月21日でありました。
終戦日の8月15日 午前2時15分に伊勢崎空襲(群馬県)が終了。日本で一番最後の記録。
(自費出版 工藤洋三著『日本の都市を焼き尽くせ』P176より)
※工藤洋三氏 〒745-0121 山口県周南市亨須々万奥286-3
そして「ヒロシマ」「ナガサキ」への原爆投下でした。
もし、1年前に終戦を迎えていたら、どんなに多くの人が死なずに済んだかと思うと無念でなりません。今にして思えば、犬死にムダ死にと言わずになんと表現できましょう。竹やりでアメリカ軍に立ち向かう訓練をしていた、というに至っては空いた口が塞がりません。
『バカな大将、敵より怖い!!』とは
よくぞ 言ったものです。
そして、『戦争継続反対』の声を上げる事が出来なかった環境が、恐ろしいと思うのは私だけでしょうか?