太平洋戦争末期、原爆投下を巡る米国の動きは、歴史上前例のないことから上層部の動揺が、米軍公文書から明らかになった。(中日新聞 H30年8月10日朝刊一面より)
[junkie-hightlights color=”red”]1945年8月9日に長崎市に二発目の原爆を投下した米国が、三発目の原爆を日本に投下する具体的な計画を立てていたことが、米国の公文書から裏付けられた。長崎と同型の爆弾をすぐに製造し、予定を早めて17日以降に標的に投下するという内容。広島、長崎での惨状を知った当時のハリー・トルーマン大統領が中止命令を出したことで計画は止まったとみられるが、長崎の次の投下を性急に実行しようとする動きがあったことがうかがえる。[/junkie-hightlights]
米国が原爆開発を進めた「マンハッタン計画」の公文書のうち、「グローブズ文書」と呼ばれるかつての最高機密史料を本紙が分析した。史料は現在、米国立公文書館が開示している。文書は長崎への原爆投下翌日の8月10日付け。マンハッタン計画を指揮した米陸軍のレスリー・グローブズ少将から、陸軍全体の作戦を立案していたジョージ・マーシャル参謀総長に宛てた報告とみられる。
「爆縮型(長崎と同型のプルトニウム型)の次の爆弾は」という書き出しで始まり、四日程度で製造し、最終部品を米ニューメキシコから発出。天候が良ければ、17から18日以降の最初の好天の日に投下できると記している。24日だった投下予定を早めるとした記述もある。
[junkie-hightlights color=”red”]文書には投下の予定地を記していないが、米軍は7月時点で原爆による攻撃目標を広島、小倉、新潟と決めていた。小倉については8月9日、前日の空襲による視界不良で長崎に標的を切り替えた経緯がこれまでの研究で知られており、三発目は新潟を狙っていた可能性がある。グローブズ少将の報告が軍上層部や政府関係者にどのように伝わったかは不明だが、投下への準備は10日のうちに止まった。当時の米閣僚が残した日記などによると、一発目の原爆投下で破壊された広島の惨状を写真で見たトルーマン大統領が衝撃を受け、閣僚会議を開き、これ以上の原爆投下を禁じる決定をしたという。[/junkie-hightlights]
大統領は陸軍長官に了承する意思を伝えたが、具体的な投下数などは指示していなかったとされる。陸軍長官から了承を伝達されたグローブズ少将は二発目の原爆投下を進めた。大統領が広島への投下を知ったのは6日、ポツダム会談の帰路の船上とされる。当時の米閣僚の日記などによると、8日に破壊された広島の街の写真を見て衝撃を受け、9日には、長崎にも投下したという報告を受けたため「さらに10万人も殺害するのはあまりにも恐ろしい」として10日に三発目以降の中止命令を出したという。日本の無条件降伏を求めたポツダム宣言を、日本は14日に受託。三発目の原爆は落とされることなく、15日に戦争は終わった。
[junkie-hightlights color=”red”]核の歴史に詳しい東京工業大の山崎正勝名誉教授は、トルーマン大統領の人物像を「仕事は部下に任せ、責任は自分で取るという考えだった」と分析。回顧録で、投下を自らの決断であることを強調しているのは、大統領が軍の最高司令官としてすべての責任を取ることを示すためであるとみている。その上で「トルーマン大統領が止めなければ、米国は原爆ができ次第、次々と落とした可能性がある」と指摘する。[/junkie-hightlights]