今こそ『桜沢如一思想の背景』を・・・

2024年の新年、桜沢如一先生の『新食養療法』(マクロビオティック。健康と幸福への道)日本CI協会発行を読み直しました。

『神道に学ぶ』ことから、『日本人や人類の歴史』を学ぶことが増えたからであります

桜沢如一先生は『生活原理としての神道』と言い、食の原理を説いておりました。

そして2013年の改正34刷の新版を手にしております。

26ページの『生命の原理』を発見するまで(1961.12.16)を、

以下にアバウトにご紹介させて頂きます。桜沢如一先生の生い立ちが分かる大変貴重なモノです。

 

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『生命の原理』を発見するまで

――食物なきところ、生命現象なし

――くるしみなきモノに、ヨロコビなし

 

私はこの本を、独力でスバラシイ人生を生きぬかんとするこのミジメナ無条件降伏国の青年少年男女諸君へのプレゼントとしてかきます。

私はすぎこし六十年をふりかえって見ました。私は六十年前に京都の町はずれ、サガノで生れました。生れつききわめてヨワク、母の乳がなく、第一回の生れ日をむかえるまでに五回も死にかけたそうです。

マズシイ家でした。父は新宮の山オクで小学校の校長をやり、京都へ出てケイ官になり、十九で結婚した母は羽オリのウチヒモを内職にしていました。この母がとても男マサリで、京都の町へうつると、新島襄氏の門下になり、西洋文明風な思想と生活法をさかんにとり入れました。そのため、母は私が十歳の時、三十歳の若さで死んでゆきました。私と、六歳の弟だけがのこり、間の二人の妹は幼くて死んでゆきました。

ソレカラ私と弟の二人はミジメナ、まずしい家の子として、母のない子として、悲しい日を迎えました私は寺にあずけられました。間もなく母や妹の様に、私も血をはきはじめ、十八歳の頃にはトテモだめだ、と云う状態になりました。そのオカゲで私は上の学校へもゆけず、薬や玉子や肉もいただけず、タクアンと、ウメボシくらいで生きて行かなくてはなりませんでした。

母が生きていたころは、朝はパンとミルク、ひるはオムレツでした。そんな伝統をふみにじった生活のために母は死んだのですが、ソンナ事とはユメにも知らない私は毎日世の人々をうらやましく思っていました。が今かんがえると、私はナント云うシアワセ者だったのか、と思います。(世の中のことは大ていコレです。

ウラヤマシイことは大ていできない方がシアワセでウレシイことは大方不シアワセナ事です。それを五十五歳で私は知ったのです)。薬や、玉子や肉をフンダンにたべていたら、私は、そんなものをタクサンとって、死んで行ったでしょう。

これはフシギなことです。こんなフシギなことはメッタにあるものではないでしょう。そのヒミツを私は今こそ、十二分に話すことができます。ナゼナラ、私はその後四十年間もつづけて、ソンナものをフンダンにたべて病弱になったタクサンの人々にソレラをピタリとやめさせて、健康な幸福な、オモシロイ、スパラシイ生活のシカタを示してはよろこばれて来たからです

 

====(中略)=====

二十歳の頃から正しい食をさがし、それによって健康の自信ができると、

私は食物が生命のモトであること、

すなわち「食物なきところ生命現象なし」と云うことを発見し、

「すべての病気は正しき食物をとらねばケッシテ治るものではない」ということを大声で、あけてもくれても、それをひろめて廻りました。

 一貿易商の小僧の身で、全力をつくしてこれをやりました。そしてイツノマニカー生をこのためにブチ込む決心をしていました。しかし世の中は、この一病弱青年のサケビに耳をかしてくれません。反対されたり、キチガイ扱いをうけたり、後には医師会の圧迫をうけたり、暴力団におそわれたり、ケイ察でイジメラレたり、ワズカナ金をしぼって出した本を発売禁止されたり、ズイ分ヒドイ目にあったものです。

ケレ共私の決心はかわりませんでした。一貿易商の小僧から、支配人になり、社長になり、三十五歳で、キレイニ実業界から足を洗うまで、収入ノ三分ノ一は父とママ母に送り、のこりの大部分をこの食養運動のためにささげて来ました。食養雑誌を発行したり、純正食品やその加工品を分けるための事業部を経営したり、講習をやって全国を走り廻ったり、生活学校をたてたり、出版物(約二百五十種ー合せて二百五十万部)を刊行したり、病院をたてたり、健康学園や、健康道場や健康食堂をやったりしました。

三十五歳から後は六〇歳の今日まで、この食養戦線、健康戦線でばかりたたかって来ました。しかし何分軍国主義、官リョー政治、ドレイの民の国、官許アカデミシアン医学の社会では一民間治療師として一向ハエナイものでした。つまり六万人の官許医者とたたかったのですからムリもありません。そこで三十五歳の春、私は家をすて、一切をすてて、タッタ二百円をもつてヨーロッパに渡り、アチラの医学と、その本場のエライ人々に体当りをやったのです。ツマリ相馬大作のヤリ方をこころみたワケです。

=====(中略)=====

つまり病気から「健康の原理」をたずねて深く深く入って行った私は

ツイに「生命の原理』を発見しソレが宇宙の秩序であることを発見し、

この生命の原理が『自由の原理」でもあれば『平和の原理』でもあり、スバラシイ幸福な人生の道案内でもあることを発見したのです。思えば四十年余りの私の人生修行は大へんな収穫をさせたものです。

私はいま、この六十歳までの波ラン万丈の生活の思い出を語るヒマがありません。それは年おいてからにしましょう。それより、今、三千年の歴史と云うホコリを失った、ミジメな無条件降伏(あ~それを二十年も前から私が絶叫していたのをタレー人分ってくれなかったのはナゼでしょう!)をした国のドレイ根性骨ガラミの人々の中から、大きなユメと、もゆる情熱をもつてたち上る若き人々、心まずしき人々に、スバラシイ人生を生きぬいたスベテの人々に共通のただ一つの資本「健康」の原理をお話しましょう。

その健康の原理を応用して、一生をスバラシキ人生にするヒミツ、幸福な人生をつくり上げる設計法をお話しましょう。

これは私が発見した新大陸「生命の原理」であります。

ソレハ『万人が自由で幸福な永遠の国』でありますソレが実生活の弁証法であり、弁証法を実生活する法で、(この弁証法を「無双原理」と云います)イツ、ドコデでも、万人の手のとどく、カンソナ、オモシロイ、生活の技法です。

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阿部一理 記

 浸水玄米と味噌と根菜中心の野菜の食生活を、1ケ月から3ケ月挑戦してみませんか?

 難病の筋ジストロフィー症の5才の幼児が2ケ月で見事に治った将人君の写真を見たYさん(40才の女性)。6年間の人工透析の中、食事の改善に挑戦したのです。2週間後、大変化が起きています。続報をお待ちください。

『飢えない、

病まない、

争わない』

ユートピアを目指して食養の大展開を目標の1年です。

 

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