愛知一中 同調圧力!!

 今年もまた、愛知県でお盆を過ごしながら、ご当地、中日新聞の充実した戦争体験の記事に触発されております。 

 

 令和5813日(日)の一面の記事に 

『愛知一中生、なぜ志願―新人記者が見つめた<予科練総決起事件>』とあります。 

 この記事は「昭和18年に航空機の搭乗員を養成する予科練を志願しようと一斉に立ち上がった事件」の『同調圧力の怖さ』をまざまざと見せてつけています。 

 私阿部一理は常々、この『同調圧力の怖さ』を取り上げています。 

今回の新型コロナ騒ぎの中で「マスク警察」ならぬ、多勢にくみしない勇気の難しさを「イヤ」というほど体験致しました。 

令和5813日(日)の一面の記事の一部をご紹介いたします。 

 

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◆『愛知一中生、なぜ志願―新人記者が見つめた<予科練総決起事件>』◆ 

 母校の愛知県立旭丘高校(名古屋市東区)が、まだ愛知一中と呼ばれていた太平洋戦争の最中に「予科練総決起事件」が起きたと聞いた。 

 

 7年前、高校2年の時。日本史の授業で先生が雑談として教えてくれた。14歳から17歳の生徒たち700人が、1943(昭和18)年に航空機の搭乗員を養成する海軍飛行予科練習生(予科練)を志願しようと一斉に立ち上がったという。 

 自分とあまり年の変わらない生徒たちが、なぜ戦地に向かおうとしたのか。 

 その疑問は、大学生になっても頭に残っていた。昨年、大学の卒業ルポにこのテーマを選んだ。調べる過程で、単純な愛国心だけではなく、社会の空気や大人の都合が生徒たちを立ち上がらせたのでは、と思うようになった。 

 

 この春、新聞記者になった。事件から80年、24歳の夏に、あらためて取材する機会を得た。同窓会名簿をめくって、30人ほどに電話をかけた。すでに使われていない番号が多く、亡くなった人もいた。 

 そんな中、「あの場」に居合わせた人や遺族が口を開いてくれた。(丹羽ありさ) 

 

◆「総決起事件」14歳「勝てるわけないと」◆ 

 記者として「愛知一中予科練総決起事件」を調べることになり、その場にいた当時の3年生、江藤千秋さん(2003年、75歳で死去)の著書『積乱雲の彼方に』をあらためて開いた。関係者への聞き取りや文献の調査をまとめた一冊。そこには、こんな様子がつづられていた。 

 1943年75日、愛知一中(現、愛知県立旭丘高)の柔道場に、700人がひしめき合った。校長や同校出身の将校らが、3年生から卒業を半年後に控えた5年生までを集めた。 

 予備役の陸軍大尉で、国語の教師が口を開く。 

 

「諸君の若い命を戦力として国にささげること」 

「覚悟を固めて欲しい」。 

 

戦局が悪化する中、学校は海軍当局から割り当てられた志願者数を達成したい意図があったとみられる。 

 その後に開かれた生徒大会でも、上級生が決起を促し続けた。そして、誰かが叫んだ。 

 

「征(ゆ)く者は、立て!」。生徒全員が立ち上がった。 

「場内には、異常な熱を含んだ空気が醸し出された」。江藤さんは、そう書き残している。 

 その場に、当時14歳の浅井武さんもいた。今は94歳。 

 訪ねていった愛知県瀬戸市の自宅で記憶をたどってくれた。予備役の国語教師は「山嵐」と生徒たちに呼ばれ、「国家の一大事だ。進んで予科連に志願しろ」などとハッパをかけたという。 

 「立ち上がらないと非国民になる。嫌々立ったやつが大半じゃないか」。振り返る口調は淡々としていた。自身が立ったかどうか、はっきり覚えていない。「ぶんなぐられるから口には出せんかった」というが、元々、「戦争に勝てるわけない」との考えだった。 

 

 早生まれで「12月1日時点で15歳」という予科連の受験条件を満たしていなかった。自分には関係ないと思っていたが、周囲に悟れらないため「関係あるような顔」をしていた。 

 3年生以上700人の内、560人が予備身体検査を受け、180人ほどが実際に志願票を提出し、うち56人が入隊。5人が特攻などで命を落としたと伝えられる。 

 中部日本新聞(現中日新聞)は「征け空へ」「ほとばしる闘魂」と伝え、「愛知一中の快挙」と報じた新聞もあった。「総決起事件」。80年がたった今、どう考えているのか尋ねると、浅井さんは語気を強めた。 

「なんで戦争せないかんの」 

「なんで殺し合いしなかんの」。記者の前で繰り返し、拳で机をたたいた。 

===(中略)=== 

 

 浅井さんは、「腹ん中では反対でも、戦争が激しくなると言えなくなった」と言う。学生時代を振り返ると、いじめがあった教室で、見て見ぬふりを求める同調圧力があった。空気を読めば楽だが、抵抗するのはしんどい。今の社会にも、愛知一中生徒全員が立ち上がった場面に共通する雰囲気はないだろうか。 

「あんたがた、こんな馬鹿なことしちゃいかんよ」。4時間ほどの取材の終盤、浅井さんにこう言われた。先輩から80年越しのバトンを渡された気がした。 

 

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阿部一理(記) 

 本当に全滅するまで戦おうと思っていたリーダーが、昭和20年89日の夜中に、ポツダム宣言を受諾するかどうかの御前会議に約半数が居たというのですから、怖ろしい。国民の多くはもう「戦争を止めてくれ!!」とは口にとても出せない雰囲気ではなかったと思います。 

 

 8月15日の中日新聞24.25ページに見開きで『空襲後(1945年9月30日撮影)パノラマ写真』をカラー化した写真(東京大学大学院の渡辺英徳教授)が掲載しています。 

焼けた名古屋の街が実に鮮明です。 

『まさにこの通り。戦争ほどばかなことはない』岡島貞一氏(95歳) 

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