終戦記念日を迎えるたびに思います。終戦の決定があまりにも遅すぎたと・・・。
この夏、愛知県でお盆を過ごしました。ご当地の中日新聞は戦争のむごさの記事が毎年沢山掲載されます。
昭和20年7月20日の岡崎空襲の記事の見出しが『焼夷弾の雨、帰らぬ人に』とあります。
広島・長崎の原爆はもとより、日本の都市への焼夷弾は無差別殺人であり、重大な戦争犯罪だと思うのですが・・・。
これは明らかに『ジェノサイド』でしょう。たしか戦争犯罪には時効はないハズです。
工藤洋三著
『写真が語る日本空襲』((株)現代資料出版、税別2800円。電話:03-3590-5038.FAX:03-3590-5039)に詳しい。
さらに工藤洋三著
『日本の都市を焼き尽くせ!!都市焼夷空襲はどう計画され、どう実行されたか』
(自費出版:〒745-0121 山口県周南市須々万奥286-3 email:ykudo@bronze.ocn.ne.jp)
の130頁に7月19、20日の両日、福井市・日立市・銚子市・岡崎市の空襲後の市街地の米軍写真偵察機の撮影(米国立公文書館)が掲載されています。
以下は、中日新聞の記事です。
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「やっぱり俺は学校へ行く。家はおまえたちで守ってくれ。」岡崎市伊賀新町の安藤恒海さん(85)の父恒夫さんは家族にそう言い残し、自転車に飛び乗ると、勤め先の岡崎国民学校(現岡崎小学校)へ向かった。
学校防護は教員の任務。すぐに駆けつけなければと思ったのだろう。1945年(昭和20年)7月20日、約280人が亡くなった岡崎空襲の日だった。
その前日も、学校外へ避難させていた天皇陛下の御真影を空襲から守るため、恒夫さんは徹夜で警護していた。疲れ果てた中でも、使命感で再び飛び起きた。米軍のB29爆撃機など120機余りが落とした約1万二千発。激しく降る焼夷弾の間を縫い、学校に向かう道中、爆弾の破片を腹部に受け、帰らぬ人となった。
====中略====
空襲後も地獄は続いた。焼け跡からどろどろに焦げた米を掘り出して水でそそぎ、口にする人たちを見た。一家の大黒柱を失った安藤家も生活は苦しく、畑で育てたサツマイモや「食っては腹を壊す」タケノコで何とかやり過ごした。母は内職の仕事を回してもらい、着物の仕立てに励んだ。
====中略====
安藤さんも父の背中を追って37年間、市内の小中学校で教壇に立った。空襲前夜、少年雑誌を読みふけっていた安藤さんは、きちんと返事をしなかったことをこっぴどく父にしかられた。訃報を知っても、幼い心は深刻さに気付かず、「これで雑誌が読める」と思ったという。
後年、同じ立場となり、見えない存在の大きさを知る。「あの安藤の息子だからと、職場でどれほど助けてもらえたことか」。学びの場を守ろうとした父の信念をしのび、しみじみと語った。
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阿部一理 記
120機のB29が落とした12000発の焼夷弾は、岡崎の市民を皆殺しにしたかったのだと思う。
戦争は人を狂気にしてしまう。小磯内閣が掲げた『一億総玉砕』を望む国民は、果たしてどれだけいたことでしょう。
戦争は止めて!!! と口に出来ない雰囲気づくりが恐ろしい。
現在も世界で唯一外出するときまで、
『コロナでマスクを外せない日本人の頑なさ』がダブって怖ろしい。
日本の家屋の屋根をつき破って、中で燃え人間に付いたら、ジェル状のガソリンは容易に消せない。そんな焼夷弾を開発してアメリカの砂漠で実験を繰り返し、うまく焼き殺せるようにし、雨あられと落として、日本の都市を焼き尽くして行ったのでした。
8月15日午前1時39分熊谷市、そして午前2時15分に群馬県の伊勢崎市の空襲が日本で一番最後に終了したのでした。
天皇陛下の終戦を知らせる玉音放送の僅か10時間前に空襲が終わったのです。
遅すぎたと思う人は、いっぱい居ると思います。
今からでも間に合います。何故こんなに終戦が遅かったのか話題にしたいものです。
アメリカは言うでしょう。「日本は、宣戦布告の前に真珠湾攻撃をした、世界に類のない卑怯な国だ。」と。
宣戦布告を打ったタイプライターの調子が悪くて、真珠湾攻撃の前に正式に届けられなかったと言われていますが・・・・・。
今となってみれば、それも陰謀で、わざと遅らせたのではないかと疑ってしまいます。だからアメリカはあの2発の原爆も正当化しているのです。
絶対に戦争のない世界をつくりたいと願ってやみません。